電話が通じない。何度かけても、電波の届かない場所にいるか、電源が切られているとのアナウンスが無情に受話器の向こうから流れてくるだけ。
「……掴まらないわね」
舌打ちをして増本がフックを押して、受話器をそのまま机に転がす。そうしておかないと、方々から電話がかかってきて鬱陶しいことこの上ないからだ。ついでに、廊下には瀬崎を立たせて、彼が背にしている秘書室へと繋がるドアは内側から鍵をかけてある。押しかけてきた役員も門前払いしている現状。
そしてその、ドアの外で電話以外の対応の全てを押し付けられた瀬崎が脂汗を垂らしながら何があったのかと説明を求める輩の相手をしているのだが、瀬崎自身、何があったかわからないのに説明の仕様がないというものだ。
「これはこれは、だいこんらーん♪ やんか。ちょぉっとすんません、通してー」
副社長である哉が天上会議で辞表を出したらしい。そんな情報が駆け抜けて約一時間。それ以外の情報が全く出てこないので、事態は程よく発酵中である。そんな中に、突き抜けて能天気な関西弁の声がよく通った。人垣にぐいぐい割り込んでやってくる、黒ぶちの眼鏡をかけた男性。
「はいすんませんね、通したってー 俺、そこの秘書君に用事あんねん。あー ほんでナニが聞きたいのかなココに居る人々は。哉が辞表出したんはホンマやで。色々あってんて。そこら辺は己で考えてな。ハイ、ほんなら。って、カギかかってるやんか。開けたってー」
さり気に瀬崎を押し退けてドアノブをガチャガチャ回して開かない事を知り、さして強くないノックを繰り返す。ほんの少し開いたドアに身を滑り込ませると同時に、外にいた瀬崎の首根っこも引っつかんで中に連れ込む。そして、外の野次馬が入ってこないよう、影のように添っていた同じく眼鏡の男がドアを閉め、すかさず鍵もかけてしまう。
「あー めんどいわ。ホンマ。ごめんやけどなんか飲むもんない? この際、水でもええわ」
普段篠田が座っている室長のイスにどっかりと腰を据えて足を組み、これ見よがしとも取れるような盛大なため息をついて早口の関西弁でまくし立てる男をぽかんと見ていた鈴谷が給湯室の冷蔵庫に、ドリップコーヒー用においてあったすでに半分ほどになっているが二リットルサイズのミネラルウォーターとグラスを持ってきて差し出すと、そのまま口をつけて一気に四分の三ほど飲み干してしまった。
「突然失礼して申し訳ありません。こちらはこう言う者で……」
くっついてきた銀縁眼鏡の方が、残ったミネラルウォーターをグラスに注いで飲み、一息ついたのか、大してずれているようにも見えなかった眼鏡のブリッジを押し上げたあと、名刺入れから二枚の名刺を取り出して瀬崎に差し出してくれた。
「……あ、はい」
一枚には大阪本社副社長の肩書きで氷川和と言う名が、もう一枚には副社長秘書室長、久木とある。
名刺を渡されて、瀬崎も慌てて己の名刺を差し出す。続いて増本、鈴谷とも名刺交換を終えた向こうの秘書は、役目は終えたとばかりに和の後ろに控えてしまう。
「えっと、瀬崎君やっけ。あのめっさ有能そうな秘書サンからなんか聞いとる? 聞いてへんの? うわぁ なんやもう、あかんやん。全然わからへんやんけ。わざわざ来たのに骨折り損の草臥(くたび)れ儲けかいな」
「……」
「んー でもなんかヒントないんかなぁ キミらなんか思い当たる節ないか? 些細なことでも気になったことお兄さんに言うてみ?」
誰も答えないが大きな独り言らしく、周りの無反応さも気にせずにガサガサと勝手に篠田の机を漁っている。
「ん? アレ? なんやコレ。何でこんなもんがこんなトコにあんねん」
一番大きな引き出しを全開にして、明後日の方を向きながら奥に手を突っ込んで指先の感覚で見つけたらしい名刺大の紙をまじまじと右から左から眺めて、徐(おもむろ)に受話器を取ってどこかに電話を掛けている。
「ホンモンかなぁ コレ」
コール音を立てているらしい電話を右手で持ち、左手の人差し指と中指の間に挟んだ紙を例(ためす)返しに裏表とヒラヒラさせて、和が呟く。そのままで一分近く経ってさすがにもう受話器を置こうとしたところ、誰かの声が微かに聞こえて、和がすぐさま耳に当てている。
「あ。ホンマに繋がった。もしもーっし。大じい様? ホンモン? ええそうですよ、和ですわ。え? 何でこのライン知っとるかって? いややわぁ ヘビの道はなんとやらって言うやないですか。………白状するからそれだけはカンベンしてくださいお願いします」
イスの背もたれに身を預けてヘラヘラした喋りだしから一転、和がいきなり標準語で机に平身低頭せんばかりに頭を下げて、現在地とこの電話番号をどこで手に入れたのかを詳(つまび)らかにしている。なんでも、篠田の机の天板の裏、引き出しの天井に貼り付けてあったらしい。
「勝手に掛けたのは謝ります、ごめんなさい。でも本当に教えていただけませんか? 何をって哉のことですよ、哉の。ヤツが出した辞表、なんだかすんなり預かったってことは、大じい様なんか知ってはるんでしょう? えー そこを何とかッ! 今度大阪来はった時、ええ店紹介しますさかい。え? んなトコ行ってなにしはるの……判りました、何とかします。天地神明ビリケンさんに誓って! えー なんで俺はアカンのですかー 替わるんですか? ええですけどー」
「は?」
今度はやたらニュートラルに関西弁へシフトして行くのを同じようにぽかんと見ていた瀬崎は、受話器が差し出され、条件反射のように受け取ってから今更のようにびっくり素っ頓狂な声を上げた。
「えーっとな、大じい様の役職なんやったっけ。ええから早よしゃべり」
「はっ ハイ! 瀬崎デス!!」
若干声を裏返しつつ、和に促されて瀬崎が声を上げる。受話器を耳に当てたまま、直立不動でとにかく返事は『ハイ!』のみ。その姿を見て増本が、緊急時の対応の仕方についてもうちょっと鍛えておけばよかったと縦皺のついた額をほぐすように指を動かしている。
『おうおう、瀬能か』
「……セザキ、です」
『まあ、名前はどうでもよいわ』
内心どうでも良くないだろうと突っ込みながらも、さすがに口には出さずに瀬崎はじっと相手の次の言葉を待つ。
『ああ、先にクギ刺しとくがの、目の前に居(お)る阿呆にこれから言うことを喋ったら地の果ての支社に送るからの、気を付け』
「はぁ」
ちらりと目の前に座っている和を見やると、興味津々の輝いた目で瀬崎を見つめている。電話を切った瞬間からあの関西弁でまくし立てられたら、どうやってかわしたらいいのだろう。
『哉だがの、ちぃと前に父親と付き合うとる女のことでなんぞ諍いがあったようでなァ……アレが自分の父親に真っ向から逆ろうたわ。長生きはするもんだのぅ』
「ハァ!?」
同じセリフなのに別のものに聞こえるほど素っ頓狂な声を上げた瀬崎に、和と同様その電話を窺っていた室内の面々がびくりと後ろに身を引く。
「え。ちょっ……マジ……じゃなくて、本当に?」
『おうおう、『まじ』じゃ『まじ』一遍片付いたらしいんじゃがまた何ぞあったようでのぅ あの哉がの、仕事なんぞ放り出してええと思ったらしいわ。ホンマにしょうのないひ孫だわい。とりあえずワシがこっち側を丸め込む間待っとれ。篠田も暫く出んからお前らで何とか持ちこたえとけ言うとったらしいぞ』
「へっ!? し、室長も来ないって……どういう……」
『ではな。喋るなよ』
ちん。
「……………」
「なぁなぁ 大じい様、なんて? 何言うてた?」
ツーツーと響く受話器を、暫く手放せないまま立ち尽くしていた瀬崎が、和の問いかけにびくりと反応した。
「え。……っと」
じっと見据える瞳が八つ。
じりっと背中に汗が噴出す感覚を覚えながら瀬崎が口を開く。
「……親子喧嘩、だ、そうです」
嘘は言っていない。嘘は。
「は?」
なぜか受話器を胸元に抱えたまま、瀬崎がかろうじてそう返事をする。ウソはついていない、ウソは。原因はともかく、親子喧嘩の末であることは真実だ。
「だから、親子喧嘩。社長と」
「またまた瀬崎ちゃん、ウソつくならもうちょい上手いこと言わんと」
「ウソじゃないですよ。ホントに。本気で。あ、あと増本さん、室長も一緒に出社拒否です」
探るような和の目から何とか視線を外して増本の方を見て後半の言葉を綴ると、増本が先ほどの瀬崎に負けないほどの悲鳴をあげる。
「何なのっ!? グルなわけっ!?」
「その辺りは俺にはなんとも……でも、辞表は大阪副社長のおっしゃるとおり、最高顧問預かりで保留だそうです。親族間のことはあちらで何とかして頂けるそうなので、俺たちは副社長が帰ってこられたらいつでも仕事が出来るように環境を整えて置くように、だそうです」
「……無駄に前向きな提案だけど、実行できるの?」
「力及ぶ範囲内で善処します。それで、ここにこれ以上いても新しい情報は出てきませんがどうされますか?」
なんだか悔しそうな顔の増本を置いて、瀬崎が和を見る。こちらはこちらで、なにやら難しい顔で虚空を数秒凝視していたが、軽く机を両手で叩いて立ち上がった。
「ふーん。ま、そやろな。ほなお暇(いとま)させてもらうわ。公は役にたたへんしアレの嫁はん怖いしなぁ、ほんなら琉伊か。あの子の携帯残しとったかなぁ ああ、あるある。って。何やココ、どこの秘境じゃ 携帯入らへんやんけ」
「……高層階なので、ここは電波が届きにくいんです。小型アンテナの開発に成功したので秋には設置される予定なんですが、今のところ圏外になることが多いですね」
「なんやもう、しゃぁないなぁ 久木、降りるで。久しぶりに別嬪さんの顔拝みに行こか。ほな、邪魔したな」
ドアを開けると人だかりが見える。隙間から泳ぐように出て行ってくれたので、他の進入を許さないままカギを掛けることに成功したが来た時同様、まだ混雑を見せる──どうやら中の会話を必死で聞き取ろうとしていたらしい──野次馬を再び関西弁で翻弄しながら和の声が遠くなっていく。
ただし、親子喧嘩らしいでー と、今さっき手に入れた情報を垂れ流しにしながら。
「……何しに来たんですかね……」
「水のみに来たんじゃない?」
嵐が去ったあとに呟いた鈴谷に、増本がフンと鼻を鳴らしながら答えた。
「瀬崎君、コレの処理お願い」
「あっ こっちもよろしく。一度下読みして気付いたところはチェックしたけど最終確認しといて」
「リュージン工業との契約上がってきてる? えー まだなの? 担当者呼び出して急かしてよ。仕事進まない」
「副社長の会合、どうしましょうか? 瀬崎さん代わりに行きます?」
「議事録できたらしいわよ。とりあえず下読み用が回ってきた。チェックできたら私に戻して。もう一回見直すから」
「二番に中国工場から電話入ってるんだけど。工業機械のことで」
「なんか茨城でトラブルだって。納品間に合わないと全部予定狂うんだけど調整して何とか一日遅れで上げるって鉄鋼部から。それでいいと思う? なんかさぁ 副社長いなくなってから色々段々緩くなってきてる気がしない? 瀬崎君、どっかでガツンと締めてよ」
…………………………………………………………………………
全部どうでもいい…… とか思っても口に出してはいけない。たて続けに女性陣から畳み掛けられる仕事の山。毎日毎日毎日毎日仕事が猛犬かイノシシのように追いかけてくる。連休はパラダイスとばかりに実家に帰ってゴロゴロさせてもらったが、明けた週末はべったり会社にいた。しかし到底処理が追いつかず、週明け月曜にはとうとう寝袋まで持ち込んで、重役フロアにあるシャワーブースで何とか身づくろいして通勤時間まで仕事に当てているのに、どうしてこんなに仕事が溜まるのか。どうして哉は澄ました顔してあっと言う間に仕事をこなしていたのか。
とは言っても、仕事が増えたのは他の三人も同じ事で、彼女たちも毎日二十二時まで仕事をしているので、自分だけがしんどいわけではない、と思いたい。
思いたいが、そろそろ限界かもとか、つい一週間前までいた田舎に帰りたいとか、ちらりと後ろ向きな思考が過るのは致し方ない。
仕事以外に、無用な探りを入れてくる輩も山ほどいる。騒動の当日、和が『親子喧嘩』と言いふらして歩いたらしく、日を追うごとに『ただの親子喧嘩』ではなかったらしいと盛大に尾鰭背鰭胸鰭。メダカが鯨になるとか昔の歌のように噂は巨大化している。現在の瀬崎は、軽く引きこもりである。もちろん、副社長秘書室に。
関西と関東では、同じ系列会社とは言え、実はあまり人事異動は頻繁に行われない。実家が別管内にあり、事情があって戻りたいと言う場合以外、管内の異動が殆どだ。それでも、この四月の異動でいくらか人に動きがあり、神戸支社から本社移動になった者がいた為、神戸支社にいた哉の情報がつまびらかになり、唐突な異動辞令のことや、哉が完璧に身分を隠して、さらに一般社員としてきっちりと仕事をしていた、奢っているような所もなかったなどなど、かなり好意的で好印象のイメージがどんどん東京本社に染み渡り、こちらでの功績もあいまって、辞表提出の本当の理由がわからないまま、今や完全に、無理やり哉を呼び戻した社長が悪役である。
もちろんそう言った情報操作を鈴谷が仕事の合間、というか、一時期情報操作の合間に仕事をしていたので、ある程度作為的ではあるのだが。
ただ、それがちょっと功を奏しすぎた嫌いもあり、いつの間にやら室長である篠田も一緒に出社拒否状態であることも相俟って、彼らが二人で新しく会社を設立するのではないかと実しやかに新しい噂が広まり、誰がマッチポンプなのか、本当に辞表を書いて上司に渡してしまった人間までいたりするらしい。さすがに、当人である哉の辞表が宙ぶらりんな状況でそんなものが受理されていないらしいが。らしい、のだが。
「いつまで持つんだろ……」
「我が身が?」
「それはもうとっくに限界超えてます……」
無駄な思考と無駄な口を利きながらも仕事を進めている瀬崎が愛想なしで増本に返す。これまでなら瀬崎がそんな態度を取ろうものなら揚げ足を取りにくる増本だが、そちらも余裕がないらしくスルーされる。
やたらと忙しいが、一つだけ瀬崎を楽にしていることがある。
学閥、と言うヤツだ。
首都圏の国立私立を問わず、有名大学を卒業していれば入社と同時に組み込まれるシステム。某有名私立大学の場合だと、それにゼミ閥まであるらしい。ナントカ教授のゼミを受けていたと言うだけでステイタスになるのだ。
それに、瀬崎は入っていない。と言うより、瀬崎が卒業した大学から氷川本社への入社者はあとにも先にも瀬崎一人だからだ。
瀬崎は本州の真ん中にある、大きな県で生まれのびのび育った。一応子供のころから勉強は好きで、よく出来た。ただ、物心つく前にすでに年金をもらえる年齢だった父親が亡くなって、以来母子家庭。高校も地元では進学校として有名だったが公立だったし、大学も、ずっと年の離れた殆ど父親の代わりをしてくれていた兄や、口うるさいけれど弟思いの姉がその成績を見て東京のものを受けろと言ってくれたのを断って自宅から通える国立大学へ進学した。
金銭的なことは、母親が父の保険金や末っ子の為にと貯金してきてくれたものが少なからずあったのだが、高校二年の時に母親が倒れ、ほぼ完治は不可能に近いとされる血液系のガンであることが判明した。一度目の治療で一旦持ち直したものの、一年以内の再発率は七十%を超え、三年以内だと九十七%、五年生きている者は皆無。
既に兄も姉もそれぞれに家庭を持っていて、兄は同居していたとは言え、瀬崎より三つ年下なだけの子供もいた。自分のできることはしたかったし、マザコンだと言われようとやはり、先が見えているのであれば母親の近くに居たかったのが理由だ。
結局、母親は瀬崎が大学三年生の秋に息を引き取った。やっぱり、その時も傍にいられてよかったと言う思いが強かったし、高校の先生や兄姉、それに母親にも色々言われたが選択として間違っていなかったと今でも思っている。
瀬崎が就職活動を始めた頃は、まだ何となく、バブルの余韻が漂っていたものの、全盛期に比べて大手企業への就職はかなり狭き門となっていた。
当の本人は就職先について別に何も考えていなくて、漠然と公務員か銀行か、位のイメージでしかなかったのだが、そんな折、兄がどうせだから大きなところに挑戦してみたらどうだと氷川の名前を出してきたのだ。瀬崎の住む県にも当然支社があって、系列の工場も多数あったので、こんな田舎の大学からなんて冷やかし程度の扱いだろうと半ば諦めながら東京本社にエントリーしたら、あれよあれよと最終選考まで残り、合格通知が送られてきてしまった時は、狂喜乱舞の様相を呈する兄や姉一家を呆然と見ているだけで、おそらく一番状況が飲み込めていなかったのは自分だっただろう。
その後もよく分からないうちに入社して辞令を受けて右も左もわからない、自分でもかなり向いていない営業職を、学閥に拘らず自分をかわいがってくれた先輩の指導もあったが、自分なりに必死になってこなして、なんだか同僚に流されるように幹部候補生試験を受けたらこれについても何も理解できないまま合格してしまった。表立っては誰も言わないが出身大学で明確な区別がある為、ある程度諦めていた出世レース。その第四コースと他人にやっかまれる位置、結果副社長付き秘書になることが出来て舞い上がっていたらこんな状況とか、人生万事塞翁が馬。一寸先は言い過ぎでも、半年先なんて本当に分からない。
「……人間、死ぬ前に走馬灯のように思い出が流れるって本当ですね……」
つらつらと色々思い出してしまって、食堂から鈴谷がデリバリーしたおにぎりをかじり、メールチェックしながら思わず呟く。
「大丈夫でしょ。どう頑張ったって食欲のあるうちは死なないわよ。議事録最終チェックしたから下に持って降りるけど、他に何かある?」
「あ、じゃあこっちのファイルお願いします。案件別に入れてあるんで、必要な部署にコピーして渡して欲しいって伝えてください」
「了解。ついでにコーヒー貰ってくるわ。いつも通り砂糖ミルク増量でOK?」
増本が苦笑して瀬崎にコメントを返してくれる。さすがに疲労だけではない何かが口から出ているのが判ったのか、珍しくなだめるような口調で。さらには、ココのところ忙しくて準備もままならない飲み物の調達までしてくれる。鬼のように仕事に追いまくられるようなってから、ブラック派だった秘書三人とも、糖分と脂質を過剰にプラスした物を欲する体質になってしまっている。
「うわっ! ウッソ。マジでッ!? ってかちくしょーめっ」
増本が部屋から出て行って三分後、何やらパソコンを操作していた鈴谷が、突然大声を上げてマウスを放り出した。マウスはもちろん有線なので、ぶんとあらぬ方向に向かって行ってラックに激突している。
「え。どうかした?」
「一応信頼の置けるスジからのソースなんですけど、副社長、週末の某チャリティー団体のパーティに出てるんですよ」
「………それが、どうかした?」
「どうかした? じゃないですよ。なんかね、女性連れてたらしいです。んー 携帯カメラの画像じゃ荒すぎて全然わかんないじゃないか。私たちが身を粉にして働いてんのに、彼女といちゃいちゃしてんのかー」
再び『ちくしょーめッ』と吠えながら背もたれに思い切り寄りかかっている。
仕事の手を止めて鈴谷のパソコンを覗くと、メーラーが立ち上がり、添付されてきたらしい画質の悪い写真が展開していた。鈴谷の言うとおり、かなり見づらい写真で、男性の方は当人を知っているおかげもあるのだろうが、哉だと何とか判別できるものの、傍にいる白いドレスの女性の人相は皆目見当が付かない。
「……………な、なにか?」
「……………あー なんか、分かった気がする。色々。私たちに何か言ってないことありますよねぇ?」
「や、いや。別に、何も。分かったって、何が?」
じっとりとした視線で鈴谷に睨まれて、自分でも分かるくらいに動揺している。
「べつにー みんなが誤解してるのをいいことにおいしいネタ独り占めとか男のクセに了見狭ッ! とか、もっと忙しくなればいいとか、色々なものに板ばさみになればいいとか、もういっそハゲちゃえば?」
「ハゲはちょっと、遠慮させて下さい。このまま行くと円形脱毛症とか、現実味を持ちすぎてて泣くに泣けない。だって、喋ったら地の果てだよ? 目の前のヤツに言ったら……って、アレ? あれってみんなのことも含まれてたのかな……アレー? もしかしてあの人だけ?」
「よく分かりませんけど、エスタードス島でもサグレスでもフィニステールでも知床でも、どこでも行けば? 行ってハゲれば? で。この人ダレ?」
知床はともかく、他の地名は全くピンと来ない。と言うより、知床に支社なんかないはずだが、なぜ知床なのだろう。
「……それは俺も知らない。だからっ! ホントにっ! なんか、女性問題で社長ともめた結果、ってことしか知らない」
ついでに、増本や鈴谷には言ってもよかったんじゃないかと今頃気付いたが言わない方が寿命が長く続きそうなので黙秘した。
「室長は知ってた、よね?」
「多分。と言うより、俺は室長と最高顧問との関係の方がよくわからないよ。どうしてあんなところに最高顧問ホットラインの番号なんかがあったんだろ」
そんな最高顧問だが、どこからどうやって手に入れたのか、既に二度、瀬崎の個人所有の携帯電話に近況を伝える為電話を掛けてきてくれている。ここがほぼ圏外だからだが、瀬崎が確実に携帯電話に対応できるエリアに居る時に。見計らっているのか? と言うようなタイミングだがおそらく何度もかけてくれているのだろう、アレで結構マメな人なんだなぁと思う反面、意図的に相手のことを隠している様子だとか、全てがオープンではないことは確かだ。
「あー それは私も疑問」
話題のすり替えに成功して瀬崎が短く息をついたのと同時に、ドアが開いて増本が帰ってきた。手にはホルダーに入ったコーヒーが三つと、持っていったはずの議事録。
「増本さーんっ 聞いてくださいよ、この人、私たちにウソついてたんですよー!」
「う、ウソなんかついてないですって!!」
「強いて言うなら黙ってたんですよぅ! このことっ」
己のパソコンを指差して喚く鈴谷に、コーヒーを机に置いた増本がどれどれと覗き込む。厄介ごとを放り投げて回避したと思っていたらブーメランのごとく帰ってきて、しかも後頭部を直撃したような気分。折角最近増本が優しくなったように感じていたのに、元の木阿弥どころかさらに状況が悪化している。
黙って三秒画面を見つめて、徐に顔を上げた増本の笑顔が怖い。
「じゃ、説明してもらいましょうか」
洗いざらい吐かされてそれでも『多分この人たちに言うのは大丈夫、大丈夫なはず』と心の中で唱えながら仕事をこなしている瀬崎を置いて、女性陣は瀬崎に届かないヒソヒソ声で何やら相談中だ。
チラチラそちらを窺っていたら、増本と目が合ってしまって瀬崎が反射的にびくりと身構える。
「瀬崎君」
にっこり。
「ハ、ハイ?」
「アンタ、携帯に最高顧問ホットライン登録してるわよね?」
右手をずいっと出す増本に、一瞬の躊躇の後に携帯電話を差し出すと、増本が自身のデスクにある電話の受話器を取り、これっぽっちも躊躇せずにリダイヤルから番号を拾って掛けてしまった。あわあわしながら見守る瀬崎。むしろ淡々と事のあらましについて教えてもらっている増本。
「わかりました。ではそのように。はい。失礼致します」
上品にそうまとめて電話を切った増本が、一転ぞんざいに瀬崎に携帯電話を投げて返す。わたわたとそれでも何とか受け止め、何となく見下ろすような増本の視線に、猫背になりながら窺うように瀬崎が視線を返す。
「……まあ君も頑張ってたわよね。やつれてボロボロだし色々かわいそうかなとか結構労わってやろうとか思ってたけど、その態度はいただけないわよね。絶対」
「うわぁ だって鈴谷さんなんかに言っちゃったら一巻の終わりじゃないですかっ」
「ひどぉい。私、情報の区別くらいするのに……」
反論する瀬崎に、鈴谷がか弱そうにイスの上で身を丸めて言うが、全く持って説得力はない。少なくとも、瀬崎にとっては。
「私まで十把一絡げにしてたのがムカツクのよ。だいたいね、私、副社長の前は人事部長の秘書だったの。ネジ込めば新人に産毛の生えただけの秘書の行き先なんて三島だろうが知床だろうがどうにでもなるから相談しやがれってんのよ。で。ちょっと副社長の様子見てきて。口実はコレね。副社長が気持ちよく仕事を再開できるように尽力するんでしょ? 瀬崎君?」
大げさに悲鳴をあげている鈴谷を置き去りに、増本がバサリと瀬崎の目の前に議事録を置く。
「え?」
「じゃ。いってらっしゃい」
送り出されたと言うより、追い出された。蹴りだされたと表現する方が正しいかもしれない。二人とも秘書らしく花のあるスーツ姿で実際に瀬崎を蹴ったりはしていないのだが。
秘書室から出ればそこは戦場だ。暫く引きこもっていたこともあって、ちょっとフラフラしようものなら誰かに捕まって探りを入れられるので、トイレだって猛ダッシュで行って帰っていた。ただし、トイレ内部にも待ち構えている猛者がいたのであまり功を奏さなかったのだが。
「あっ 瀬崎く……」
「すいません俺、重大任務があるんでッ!!」
呆然としていたら、矢庭に背後から声がかかる。振り向いたら廊下でなど過去一度も遭遇したこともなければ、瀬崎のことなど名前さえ覚えていなかったはずの三島部長が立っていた。脊髄反射で叫ぶように答えて、走って逃げる。体格に相応の速度しか出せない三島を振り切り、運良く秘書の一人が降りて閉まりかけたエレベータにカードを翳し、入れ違いで駆け込む。
いつものクセでロビーのある一階を指定して、動き出した箱の中で端とセコイことに気付く。
移動費は、誰持ちなんだろうと。
ロビーから移動費について増本に問うと、ケロッとした口調で借り上げハイヤーがあれば使ってよいとの答えを貰い、もう一度エレベータで地下階へ移動して運良く空いていた車の使用願いを書き込んで乗り込む。氷川系列の自動車メーカの最新モデルとは行かないまでも、普通なら乗れないランクの乗用車の中でその乗り心地も気にする余裕もないまま瀬崎が持ってでてきた書類を握り締める。哉の住むマンションには一度行ったことがある。一応の地名を告げて、マンションに近づいた時は人力ナビである。瀬崎の指示通り、かなり年配の運転手が滑らかに車を走らせる。
心地良い移動時間中、ついうっかり眠ってしまったものの、大方の場所に着いた運転手によって起こして頂いたので、無残な寝起き状態で車から降りることは免れた。
暫く待っていて欲しいと頼むと、暫く辺りを流しておきますと、携帯番号の書かれた紙を渡された。
遠ざかる車の後部を未練がましく見送って、綺麗に磨かれたエントランスへ入る。
案の定、自動ドアはロックされており、その横にあるパネルで操作をするようだ。うろ覚えのまま部屋番号を押して、果たしてその番号で合っているのか、はたまた合っていたところで出てくれるのかと、まんじりともせずじっ文字パネルを見つめる。
一秒が一分ほどに感じる。じっとりと手のひらに汗が滲むのにも気付かないまま固まっていると、通話状況に切り替わるざりざりした音の後に、声が届いた。ほんの一週間ほど前に聞いているのにやたらと懐かしい、一言なのにその抑揚のなさに何やらほっとしてしまう。
「あの、突然すみません……今、時間あいてるでしょうか?」
『………………………瀬崎か』
「そうですっ! 入れて下さいお願いしまスッ! もう色々ダメですうぅうううぅ」
へるぷみー! と心の中で叫びながらその声を聞いてパネルにしがみつく。
暫くの沈黙の後、目の前のガラスのドアが開く。
『上がってくるなら閉まる前に入れ』
ぶつりと通話が切れる音にハッとして、開いている隙間に転がり込む。一度靴に閉まりかけたドアが当たって再びドアが開き、また閉じる。
「えーっと、二十七階……だよな」
昇りのボタンを押して、ずらりと並んだエレベータの前で一人呟いて開いたドアに滑り込み、ボタンを押す。上昇の圧力を感じながら、それとは別の圧迫感で心拍数が上昇する。追い出された勢いだけでここまで来たが、来たものの何をすればいいのか、どんな情報を持ち帰れば増本たちが満足するのか全く分からない。
「どうしよう」
議事録の入った封筒を抱きしめて呟いている間にも、エレベータは瀬崎を運び続けて目的階に到着してしまう。
着いてみれば、なんと二十七階のドアはたった一つ。
「うわ。ナニこのブルジョワ感……一人暮らしのはずなのにどんだけ広い家に住んでんの」
及び腰のまま、ドアの横にあるドアフォンを押して到着を告げると、開錠される音が聞こえる。そっとドアノブを回して玄関ドアを開けても誰もいない。
「遠隔操作……」
マンションの玄関と言えば半畳がデフォルトだと思っていたのに、玄関スペースだけで瀬崎が住むワンルームのキッチンとユニットバスを含んだくらいの広さがある。
きちんと磨かれて揃えられた哉の靴。そろりと突き当たりのガラスのドアを窺うと、人影が映ってドアが開いた。
「ふーくーしゃーちょーおおおおおお」
近づいてくる哉を見て、気も力も緩んで満更演技でもなくガックリくず折れる。そんな姿に呆れているのか、また無言の数瞬が過ぎてから、短く上がるように言われて力の抜けた足でなんとかその背を追ってリビングと思われる広い部屋へ入る。
「助けてください、俺、死にそうです。ってかむしろ死にたい」
「俺がいなくてもどうにでもなるだろう?」
固すぎず柔らかすぎないクッションで身を包んでくれるものすごく座り心地のよいソファに沈んで泣き言を言う瀬崎に、氷の浮いた水の入ったグラスを持って、表情を変えないまま哉が答える。
「なりませんよ。なるわけないじゃないですかっ! 副社長も篠田室長もいないのにっ 大体どうして天上で辞表なんか出すんですかー!? もう、うわさがうわさを呼んで今社内すごいんですよ? なんだか次々に辞表出しちゃうやつがいて収拾つかないッス。それも候補生がっ 俺も二人の片棒担いでると思われてて居心地悪いなんてもんじゃないしっ! 何でいなくなったかなんてこれっぽっちも知らないのにみんなからは何でも知ってると思われてるしっ! 毎朝会社休みてぇーって思っても、帰れないから泊り込みで目が覚めたら職場だから無理だし。いや、いないとまたうわさに拍車がかかりそうだしっ!!」
まくし立てる瀬崎の言葉を聴いているのかいないのか、泰然としたままグラスをテーブルにおいて、哉が向かいのソファに座った。そこまで一気に言って、出された水を飲み干す。うわぁ 水までうめぇ と、心の中で独りごちて勢いのままグラスを置く。
「なんだ。噂って」
怪訝そうな声音の哉に、瀬崎は大げさにため息をついてみせる。
「副社長と篠田室長が新しい会社起こすって。んで、優秀なのヘッドハンティングしてるって。声かけられる前に身軽になろうってバカがわんさか出たんですよ!!」
両手に何かを掴んでいるような、中途半端な位置で指を曲げた状態でワシワシ動かして叫ぶ瀬崎に、ちょっと引いたような気がしないでもないリアクションの後、哉がさらに問い重ねる。
「お前は?」
「んなこと信じるわけないじゃないですかっ 篠田室長の命令で副社長には連休明けからバリバリ働いてもらう予定だったんですから。それにー………俺、副社長が辞めるときは隠遁生活に入るに決まってるって思ってたし」
またため息をついて気化による水蒸気の汗をかく前に中身のなくなったグラスを見て、そっと哉を窺うと、いつも起伏が薄すぎて感情の読めなかった顔が、ありありと分かるくらいに不敵に笑っていた。
「とりあえずたまった有給使ったことにして帰ってきてくださいよぅ コレ、天上の議事録ッス。サッパリ書いてないですよ。副社長が辞表出したことなんて」
一番大事な口実を出すのをすっかり忘れていたが、どうでもいいから構わないのだ。とりあえず、顔を見ることが出来てさらに笑わせることに成功したので今日のミッションは終了である。理由は、もうこれ以上無理だからだが。
「副社長が来るって言うまで通い続けますからそのつもりでっ! 余生を送るには早すぎますからねっ!! 決済の仕事持ってくるから目ぇ通してくださいよ!?」
こうなったら捨て台詞だって残してやる。首を洗うのはこちらのほうかもと思いながら。
毎日毎日哉を詣でている内にハイヤーの運転手とも仲良くなり、車内での会話が何よりの息抜きになってしまった瀬崎が、今日も今日とてやってきたのだが、いつも通りエントランスのパネルで呼びかけてもうんともすんとも反応がない。十分ほど粘ったけれど、その間に行きかう住人らしき人に不審人物のように流し見られながら十分おきにエントランスに戻って呼び出すこと数回。居ないのか、居留守なのか。
コレで返事がなかったらさすがに帰ろうと思いながら部屋番号を入れるといつも通りに短い返事があってドアが開錠される。
エレベータで昇り、ドアフォンを押すと暫くしてシリンダーの回る音がして、ドアを開くとリビングから開錠できるにも拘らずわざわざ玄関まで開けに来たらしい哉が立っている。
「居留守ですか!? まだ五日目なのに居留守使っちゃいますか!? 俺のことなんてもうどうでもいいってことですかっ!?」
ああこの目は『どうでもいい』って物語ってるなと思いながらいつも通りリビングへ上がりこむ。途中、いつもなら電気も付いていないキッチンが明るい事に違和感を持ってちらりと中を窺うと女の子がちまちま動いているのが見えた。アレか!! と喉の先まで出かけた言葉を生唾と一緒に何とか飲み込む。
「居留守じゃない。さっき帰ってきたんだ」
「えええ。俺、ずーっとエントランスにいたのに。あ、駐車場かっ ああ、ホントに今日はなんか服装が違う。うわあ、すいません疑ったりして」
もう一人の存在に気をとられていたがそう言われてよくよく哉を見るといつもと若干雰囲気が違う。
「いや。で、今日の用件は?」
「あ、ハイ……」
哉を見て、それでも気になって生返事を返してキッチンを窺っていると、お盆を手に女の子が現れた。
「あっああッ!!」
「いいから、座れ」
あなたがユキノジュリさんですかッ! と叫びそうになってなんとか叫び声と変換する。
今まで残り香のような気配はちらついても姿の見えなかった樹理がいた驚きで、気付かないまま立ち上がってしまっていた瀬崎に哉が呆れたように声をかける。
「どうぞ?」
「は、どうもっ」
なんだかとても楽しそうな笑顔を見せて、樹理がテーブルにお茶を置いて去っていった。
若い。そしてものすごくかわいい。予想の斜め上どころか、小型機と衛星が飛んでいる空域差くらい度肝を抜いて問答無用で美少女だ。顔の造作も文句なしだが振りまく雰囲気がなんとも清楚で可憐で文句なしだ。しかし年齢は鈴谷が手に入れたあの荒い画像の写真の雰囲気から二十代前半までだろうとの予想をしていたが、どう見ても十代じゃないかこんちくしょうと、鈴谷節で締めくくってみてもどこか釈然としない。
「で?」
その声と、ダンと湯飲みが置かれた音でハッと気付けば体ごと彼女が去った方向を見ていた。
あ、なんか不機嫌かも。と、身を戻す。
「今日はなんだ?」
「この契約、こんな感じでいいか確認お願いします。こっちの書類は中国の工場の分。国内はこちらです。それからこの工作マシンの部品の中国へ向けての輸出の件と輸出規制品目の一覧です」
書類で膨れ上がったビジネスバッグから一番分厚いファイルを引っ張り出して手渡す。それに付随した資料があと四冊。さすがに今日は重かったが、こうやって哉の元を訪れるようになってから、格段に仕事が捌けるようになったのでこのくらいの荷物なんてことはない。
「はぁ 俺としては早く副社長に来てもらってこんな手間省きたいんですけど」
次から次へと出てくる書類に呆れたような表情をしている哉に、ここぞと呟いてみる。
「うるさい。大体こっちは辞めた身だ。来るから仕方なく手伝ってるだけなのに文句を言うな」
「うそだぁ コレ絶対全部副社長の仕事だし。代わりに隅々まで読んで不明瞭なトコにちゃんと付箋つけて赤ペン引いてる俺の尽力、労ってくださいよ」
とにかく引っかかるところが多すぎて線を引きまくってしまい、最早どこがチェックポイントだったのか、基本のところがぼやけてしまった感が否めない資料を手にとってその表紙を叩いていると、左手を、何かを払うような仕草で振って呆れも極まれりと言った様子で哉がソファの背に凭れる。
「下読みは当たり前の仕事だろう。労う必要はあるのか?」
分厚いファイルを組んだ足の上に乗せてパラパラと中を見ながらそう言われたらそうですとしか言えないのだが。
「いや、それじゃなくてここまでの道のりとか」
「社のハイヤー使ってるやつが言うか?」
フンと返されて、うわなんで知ってるんだこの人、とか思いながら、話題を逸らす為に頭の中をぐるぐるっと見渡す。
「うわ。バレてるし。あ、そう言えば篠田室長から連絡入りました。もう少しだからなんとかやれって。あれってもう少しで戻るって事なんでしょうか?」
連絡が入ったのは今朝のことだ。哉の元に向かう前に書類の最終チェックをしていたら、机の上の充電器に差し込んでいた瀬崎の携帯電話が鳴り響いた。ほぼ圏外のこの場所で、携帯電話が鳴るなんて思ってもいなかったので警戒解除していたこともあり、文字通りイスから尻がちょっと飛び上がってしまった。この電話に最高顧問から電話がかかってきていることを知っている女性二人に厳しく見守られながら、電話を動かす途中で電波が途切れて、呼び出し音が切れてもいいですと思いながら出てみたら篠田だったのだ。
もう少しこのまま持ちこたえろと言われてほっと肩から力を抜いた後、なぜか最高顧問に代わられてびっくりしている間に、あちらは何とか丸め込むことに成功したので、哉を復帰する気にさせるために哉のところにいる相手に何とかコンタクトをとってそちらから攻める様にと当人の名前まで教えてもらってありがたいアドバイスを頂いたが、通いつめても会えない名前は分かっても顔も知らない相手にどうやってコンタクトを取ればいいのか具体的な部分はこれっぽっちもなく、電話の向こうの老人は気張れよと笑って電話を切ってしまった。
あの二人がどこでどうして繋がっているのか皆目検討が付かないが、何となく家族と仲が悪そうな哉に、最高顧問の話題は避ける。
「さあ? こっちには何の連絡もないが?」
何の感慨もないのか、それともなにかあっても表情に表れないのか、書類に目を通している哉にさらっと聞き流される。
「ええー じゃあ違うのかなぁ あー お茶がおいしー ここ、いつも水しかでなかったからなぁ それも水道水。いくら東京の水道水がおいしくなったって言っても切ないっすよ、水道水」
「いやならいいぞ、何も出さない」
実際、上京する前に聞かされていたほど東京の水道水もまずくはない。ただやっぱり、実家の水道水の方がおいしいと思う。おそらくこんな高級マンションなのだ。流しの下にでも備え付けの浄水器が鎮座しているに違いない。まあ水の味の差など飲みなれているかいないかなのだろうけれど。
「あ、ウェルカム水道水。もうなんでもいいっす、飲めるなら。この紙プラス、ミネラルウォーターとか、考えるだけで重いし」
紙も水もやたらと重い。出来れば片方である方がうれしい。
「お代わり淹れましょうか?」
瀬崎の変に高いテンションな様子がおかしいのか、キッチンで何やら作業をしながらリビングを窺っていたらしく、そう言っている手にはすでに急須が握られている。
「いただきますっ!!」
座ったまま最敬礼しそうな勢いで返事をした瀬崎の態度に、それでも上品に笑いながら樹理がお茶を注いでくれる。
「ごゆっくり」
仕事の話をしているからなのかそう言い置いて樹理があっさりキッチンに戻ってしまう。
「ええっと、あの、彼女、誰っすか? 昨日までいなかったですよね?」
樹理にヘラヘラ笑っていたら、何だが冷たい空気が前方から漂ってきて、足元を這い上がってくるような感触。
うわぁ ヤバイかも。真面目な顔を取り繕って湯飲みを取る。
「知ってるくせに聞くな。今日も俺のほかには誰も見なかったことにしておけ。下手に報告したらまた厄介ごと押し付けられるぞ」
それもバレてるのかよと書類に目を落としたままの哉を掠めて斜め上を眺める。
「うへえ。でもこれ以上ってアリなのかな」
言い終わってすすったお茶は、先ほど飲んだものよりほんの少し温かい。どこかの故事のようだが、さらりとそんな気遣いが出来るってちょっとすごいかもと甘みと渋みが絶妙に引き立っているお茶を味わう。
黙って書類を捲る哉と、邪魔をせずに同じく黙っている瀬崎は持ち込んだ自分用の仕事をその間に済ませることにしている。ぼーっと待っているのは時間が勿体無い。何とか家に帰られるようになったものの、帰宅は最終電車にギリギリ乗ることができる時間だ。
その間も、タイミングを見ては樹理がお茶を入れてくれたり、お菓子を置いてくれたりするので、瀬崎は大げさに喜び、哉に冷たく睨まれた。
既に瀬崎が赤字添削した書類は九十八点の出来だったようで、二ヵ所ほどチェックが入っただけで返ってきた。それを大事にしまって、あ、と腹を押さえてさすがに飲み過ぎたかも知れないと言う仕草。
「すいません、トイレ借りていいっすか?」
「玄関向かって左のドア」
立たない瀬崎を見て察したのか、哉がトイレの場所を教えてくれる。
「ハイ。ありがとうございますっ」
ダッシュでリビングを走り抜けるとバタバタと言う音に樹理がキッチンから廊下に顔を出した。
「あ、お帰りですか? 良かったらこれ、もうすぐお昼だしどうぞ。ちょっと待っててください、袋に入れます。帰りの車の中で食べてください」
出てきた樹理の手には、使い捨てのパックが乗っていて、その中にはおにぎりや玉子焼きなどのおかずが彩りよく詰まっている。お茶で満腹を感じていたのに、ぐぐっと別バラが出来るような生唾が上がってくるのを飲み込む。
「うわぁ ありがとうございます! 今ちょっとトイレ借ります。お茶、美味かったので飲みすぎました」
そう叫んで、トイレに駆け込んで超高速できちんと手も洗って、入った時とは比べ物にならないほど静かにドアを開けて廊下をそっと足音を忍ばせて歩く。
密かにやってきた瀬崎に、紙袋を両手で持った樹理がびっくりした顔をしたが、古今東西静かにの合図『人差し指を口に当てる』だけの動作で開けた口をすっと閉じてくれた。
「あの人を仕事に復帰させてくれませんか?」
身をかがめてそっと囁く。実は哉よりも五センチほど瀬崎のほうが背が高い。ちっちゃくてかわいいなぁと思いながら問うように瀬崎を見上げる樹理に小さな声で言葉を続ける。
「戻ってきてほしいって思ってるのは俺だけじゃないです。今ここに来てるのも、上の差し金ですよ。多分、あの人が抜けて困ってるのは俺たちよりも上層部だと思います。なんていうか、あの人はもう氷川のカリスマになりつつあるんですよ。結構有名人っていうか。仕事に戻らせることができたら、あなたに対する風向きもちょっと変わってくるんじゃないかなってのは、まぁ 俺の希望的観測ですけど。
あなたにしか、できないと思うんです。お願いします、樹理さん、副社長を説得してください」
できるだけ早口でまくし立てる。樹理の顔にどうして名前を知っているのかと問うような何かが見えて、そう言えば哉は彼女の名前を一度も呼んでいなかったと思い出すが、もう失敗は取り戻せない。
「あああー 誰かの手作りなんて久しぶりすぎて涙が出るっ ホントにありがとうっ!!」
樹理の手から袋を受け取って中を覗き込んだらふんわりとやさしい、おいしそうな匂いが鼻腔をくすぐる。その匂いに何か色々思い出しそうになってしまってなんだかよく分からないけど目頭が熱い。
「用が済んだならとっとと帰れ」
どごん! と、足元に瀬崎の置いてきたビジネスバッグが蹴りこまれた。見ていないけれど床を滑ってきたから絶対に蹴られた。哉の持つバッグの十分の一以下の購入額のバッグがみしっと嫌な音を立てていたがこの際どうでもいい。
リビングと廊下を隔てるドアのこちら側に哉が仁王立ちしている。
「うへぇ 帰りますッ! とっとと帰りますからッ!! お弁当ありがとうございます。じっくり頂きますッ! お邪魔しましたっ」
どうせへたれた靴なのでつっかけるように履いて叫ぶように礼を言ってドアを閉める。
バタンと閉まったドアを後ろ向きに見て。
ちょっとでも樹理に近づいたら威嚇される。なんて独占欲が強くて了見が狭いんだと思いながらも、瀬崎はなんだかいい感じだなぁとエレベータへ向かった。
この昼後、瀬崎のうっかり失言を鈴谷が意図的に尾ひれがつくように噂を流して、消火不能状態までに事の真相が社内に広まり倒した。
fin 2010.10.16
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