幸せのありか 2
東京に戻って最初の二週間は、関係各所へのあいさつ回りで潰れた。その後も仕事の引継ぎや、取引先を覚えていくことでさらに二週間。哉が正式に仕事をはじめることが出来たのは、神戸をでてからひと月が経ってからだった。
兄のこれまでの仕事を一瞥して、その甘さに哉は歎息する。
哉がこれまでしていた仕事は、営業や企画と言ったもので、経営とは全く離れた場所にあった。その哉が見ても呆れるほどで、よく言えば人情味の溢れた、悪く言えば経営の基本すら踏まえない、行き当たりばったりの采配。とうの昔に切り捨てられていいような採算の取れていない企業や工場、営業所が、寄生するように本社にすがっていた。それらの救済はおそらく全て、副社長権限で兄が独断で行っていたことだろう。
まずはこれから処理していかなくてはならない。いやな仕事ばかり押し付けられた気がするが、これでコケるようなことがあれば、哉も兄と同様に、あっさりと解任されるのだろう。その地位から。
副社長と言う地位には、何の価値も見出せなかった。現社長の息子だからと与えられた地位は、世間が思うほどすばらしくも何ともない。けれど、ただ純粋に、面白そうだと思うからこそ、彼はここにやってきた。
あがってきたリストをじっくりと読みながら、内線を取った。東京に帰ってきてすぐに社長である父が、役に立つからと与えてくれた秘書兼運転手の篠田を呼び出すために。
引き合わされた瞬間、信じさせてくれるものがある男だった。無口だがきっちりと仕事をこなし、ひとかけらのソツもない。社内社外問わず初対面の相手と話をしなくてはならない時は、さりげないフォローも忘れない。今のところ、父の手の中のものだとしても、社内で哉の味方だと言えるのは彼だけかも知れなかった。
リストから、再建、合理化の必要な子会社や関係企業へ、その計画の提出を命じて、〆切の翌日、哉のデスクの上には膨大な量の資料と計画書が積まれていた。ひとつずつ、時間をかけながら確認して、可不可をつけていく。
哉の判断では半数以上が不可。つまり切り捨ての対象になる。それをさらに篠田に相談して、彼の意見を聞き、結局三分の二になるかという量の対象の取引中止を決定した。つまり、たったそれだけでこなせる仕事をだらだらと細かく分配して経費をかさませていただけなのだ。今まで。
社長に連絡すべきかと問う哉に、篠田は『この件につきましては副社長一任とされております』と答えた。つまりは、何かあったらお前が全て責任を取れ、と言うことなのだろうが、分かったと答えて、社長へは結果の報告だけをすることを決めた。
篠田を控え室に下げて、首を回しながら立ち上がる。デスクの後は、セオリーどおり大きなガラスで仕切られており、眼下にはごみごみとした都会の街並みが続く。社長室のある最上階の一つ下の階になるこの部屋からの景色は、おそらくこの会社に勤めるものなら見てみたい、見下ろしてみたい景色だろう。
きれいでも、汚くもない。
哉にとっては、ただそこにあるだけのもの。
生きていくのは簡単だった。
何も求めなければよかったのだから。
そう言えば、中学、高校とずっとつるんでいて、なぜか現在もその関係が瓦解していない数少ない友人が珍しく真顔で言った言葉を思い出す。『生きているのと、死んでいないのは違う』どうしてそんな言葉を思い出したのだろうと、少し唇の端をあげてから、哉はデスクに戻った。
彼に連絡を取ろうかと考えて受話器を取り、考える。わざわざ自分が言わなくても別ルートから今回のことは伝わっているだろう。いろいろ問われるのも煩わしくて、気が変わった。指は、取引中止の決まった相手先の番号を押していた。
誰も居ない家に、黙って帰る。
東京に帰ってきたとき、両親は当然のように哉が自宅に住むものだと思っていたようだが、哉は都内にマンションを購入した。
会社を追われて家を出た兄の代わりになるつもりなどさらさらなかった。
帰って寝るだけ。別にどんなところでも眠れたらよかったのに、父親に立場を考えろと言われ、母親にセキュリティだけはしっかりしたところに住んでくれと言われ、気が付いたらとんでもない物件を購入させられていた。立て替えようかと言った両親の申し出は断った。
確かにこの五年ほどの哉は氷川の平社員だったが、そもそも出発点が他とは違っていた。大学生の頃、しばらくかかわっていたIT関連の株を絶対売れるから、損はさせないからと押しつけられた。途中で増資の関係から一株の価値が四倍になり、その後、東証の一部に上場された時はバブルさながらの高値をつけた。なんの未練もなかった哉は株式が上場されたその日に手持ち全て売り払った。
その年の確定申告ではばかばかしいほど税金を払わされたが残るものは残った。一人で乗りまわすには、乗り降りが楽な左ハンドルの車がほしくてディーラーに行って、ぱっと見て気に入った車をキャッシュで買った。
車を買った以外ほとんど手付かずで残っていたそれの一部を支払いに当てた。眉一つ動かさずに銀行の窓口で億の金をぽんと振り込んでみたら、奥から支店長が血相を変えて現れた。
鼻をくくったような対応で『番号札をお取り下さい』と二十分待たされたのが嘘のようになぜか別室に通されて今後ともお取引をよろしくとかなんとか言われたけれど良く覚えていない。
スーツを脱ぐと、気温の低さに肌が粟立つ。去年、在学中言葉も交わしたこともなかった同級生の結婚式の引き出物でもらったデジタルカレンダーがもう十一月の半ばを示していて、寒さも感じるはずだと頭を振る。
後に流していた伸びすぎた前髪が目の前に落ちてきて顔にかかった。邪魔になる髪をかきあげる。東京に帰ってきてから消えない頭痛に顔をしかめて、哉はシャワーを浴びるために風呂場へ向かった。
シャワーを浴びながら無駄に広くて無駄に華美な浴槽を見る。疲れを取ろうと思えば湯に浸かるのが一番いいと分かっていてもそれさえ煩わしくて、ここのところずっとシャワーで済ませていた。
さすがにそろそろ髪を切りに行かないと、そう思って直近のスケジュールを思い出し、そんなヒマはなさそうだと歎息しながら風呂から上がる。
冷蔵庫の中には、ビールが箱ごと突っ込んであるだけだ。昼食はおろか、朝食も夕食も会社で摂っている現状だから、さし当たって不自由はない。
ここのところ毎日、疲れを感じていても眠れない日が続いている。アルコールは好きなほうではないし、飲めるほうではないことも自覚している。現に、350mlの缶ビールで事足りているのだから。引越しをしてきたときに各方面からよく分からない高そうな酒をもらったが、リビングのローボードの中の飾りくらいにしか機能していない。高々缶ビール一本、たったそれだけのアルコールに頼らないと朝まで夢を見ずに眠ることが困難で、途中で目がさめてしまえばこれからやらなくてはならないことを考えてしまって眠ることが出来なくなる。
使わない電化製品も無駄に多い。母親が新製品が出るたびに勝手に業者を寄越して今までのものと交換して行くのだ。構う相手がいなくなったことで、その対象が哉に移った。今までほとんど哉のことなど気にも留めていなかった彼女は、その分も取り戻すのだと言わんばかりにべたべたと距離を縮めようとしてきて鬱陶しくて堪らない。
数少ない『使われている』電化製品であるテレビをつけてCSのニュースチャンネルを選ぶ。垂れ流される情報を聞きながら、哉はプルタブを開けてビールをあおった。
苦い液体を少しずつ摂取していると、不意に、エントランスからの来客を告げるインターフォンが響く。
壁にかかった時計は、すでに十一時を指そうとしている。
「誰だ? こんな時間に…」
疲れが溜まっていたからか、まだ半分ほども飲んでいないのに、立ち上がるのに少し時間がかかった。
リビングの壁に取り付けられたドアフォンを取るとモニタにエントランスの様子が映し出される。
そこには、モスグリーンの制服らしい上下を着た、どこかで見たことがあるような、そんな気がする少女が立っていた。
「誰だ?」
エントランスに届いた声に、少女がきょろきょろと顔を動かして、自分の真上にカメラを見つけて、見つめながら答えた。
『氷川副社長…ですか? 私、行野樹理(ゆきのじゅり)と言います』
その名前に、しばらく考える。モニタに映る少女は、どう見ても中学生か高校生だ。このひと月、いろいろな人間と会っていたが、さすがにこの人種はなかったはずだ。どこかで逢ったかも知れないという認識は、間違っている。
どうして認識を間違えたのか考えていた哉に、カメラに、少女が必死なまなざしを向けて言う。ふわふわとした長い髪が顔を上げなおしたことで柔らかに動く。
『…あなたが、今日取引中止の通達をした、会社の娘です。夜遅くに来たことは申し訳ないと思っています。お話があります。少し、お時間をいただけませんか?』
モニタの向こうの少女の顔には、全く見覚えがなかった。逢った事もないのだから。アルコールの成分で分類が曖昧になった記憶の引出しをひっくり返して、思い出す。行野プラスティック。現在哉が任されている氷川の工業部門の協力工場だ。高い人件費と不良品率、生産コストは最悪だった。ワースト五に入るであろう先である。提出された再生計画も到底納得できる内容ではなかった。問答無用の切捨て先だ。
そのまま通話を切ってやろうかとも思ったが、今回の哉の決定に一番初めに反応してきたのだからと、了解の代わりにエントランスの鍵を解除した。
「あがって来い」
電車の乗り継ぎを間違えて大回りした挙句、駅から目的地までの間に二回道に迷い、やっとたどり着いた場所は、びっくりするくらい綺麗なマンションだった。
ちり一つない広いエントランス。整然と並んだ銀色のポスト。
ごくり、と自分ののどが鳴る音が、静かなエントランスに響いた気がした。
目の前のドアはガラス張りで自動ドアのようだったけれど、あたりまえだが開かなかった。
握りしめた紙には、インターネットの中で生きているような知り合いに非合法な操作をしてもらって調べてもらった、氷川グループ東京本社副社長の住所。マンションの部屋番号まで記されている。
二七〇一。
小さく四角いボタンを押す指が震えているのが自分でもわかる。ゆっくりと時間をかけて、押す。二…七…〇…一…
しばらく待っていると、意外と若い、けれどものすごく不機嫌そうな声が、背の低い樹理の目の前にあるスピーカから漏れた。
誰だと問う声には、見たことがないが、と言う響きが含まれていた。見えているのならとカメラを探すと、ほとんど真上のような場所に防犯カメラが一つ、ついている。
相手が間違っていないか尋ねて、名乗る。
必死で、逢ってほしくて、自分の中にある敬語をフル活動させて、無礼でない言葉を探す。ここで相手を怒らせて、そのまま帰れと言われたら、学校から帰って、母から話を聞き、すぐにここを調べて、着替えるのも忘れて制服のまま樹理がここまで来た意味がない。
諦めようかと思いかけたとき、がちゃりと鍵が解除される音が響き、沈黙を破ってスピーカから声が届いた。
「あがって来い」
弾かれるように、樹理は開いた自動ドアをくぐった。
玄関のインターフォンを押すと、何の返事もなくがちゃりとロックが解除される音だけが樹理に届く。玄関で躊躇している樹理に、中からいいから入って来いとだけ、声が聞こえた。
靴をそろえて脱ぐ。
新築できれいだけれど、あまり掃除がされていないのか、人が通る部分が獣道のようについている。その道を通って行くと、広いキッチンとダイニング、カウンターで仕切られたやっぱり駄々広いリビング。そこに、およそ似合わない普通の缶ビールを持ってソファに座る、若い男がいた。
「あの、えっと」
氷川グループ本社の副社長。その肩書きだけで年配の男性をイメージしていた樹理が、目の前にバスローブ姿で足を組んで座っている哉に、一瞬たじろぐ。
あなたが副社長ですかと声に出して聞くことは、本人だった場合大変失礼だ。けれど目は、思っていることをそのまま映していて、哉には樹理が無言で『アンタが副社長?』と言っているように思える。
「俺に用があって来たんだろう。ならさっさと言ってしまえ」
彼女を待つ間に飲んでしまって、残り少なくなったビールの缶をもてあそんで、面白くなさそうに哉が言う。
その言葉に、樹理が最初はおずおずと徐々に加速をつけて、必死に父親とその工場のことをしゃべりつづける。
樹理は、社長をしている父親が、従業員が帰った後に現場で働いていることを知っていた。厳しい納期に合わせるために何日も家に帰ってこないこともざらだった。昼間は金融機関や取引先である氷川本社との対応に追われ、夜はそれでは身が持たないだろうといっても、聞かずに仕事をしていることを知っていた。
父親の工場は、氷川から原材料を仕入れて、それを加工し、再び氷川へ納品しているオンリーワンの協力工場なので、氷川からの仕事がなくなるということは、イコールで工場の閉鎖だ。このご時世、簡単に他から仕事が回ってくるとは思えない。
自分たちの生活がどうにかなってしまうことも、おそらく樹理の代までかかるだろう設備投資や運転資金の借金のことも、別にどうでもよかった。
お金など働いて返せばいい。
とにかく切り捨ての決定だけは取り下げてほしかった。父が会社を大切に思っていることは子供の樹理にだって分かったし、従業員だってパートやアルバイトを含めれば大勢いる。
不幸になるのは、樹理たちの家族だけではないのだ。
たどたどしくても、懸命に敬語を使いながら語る樹理を冷ややかな目で観察する。
上等そうなモスグリーンの制服。間近で見てやっと思い出した。哉が通っていた男子校の近くにある女子校の、高等科の制服だ。妹が着ていたのだから間違いない。濃紺のリボンは、確か二年生。
都会の一等地にバカみたいに広い土地というより山一つ持っている、関東ではその名を知らない人間はいないであろう有名なお嬢様学校だ。寄付金だけで普通の私学に通えてしまうような学校である。実際学校の寄付者名簿の筆頭に自分の父の名前があったはずだ。
祈るように、胸の前で組まれた樹理の指は、白くて綺麗だ。重いものも汚いものも持ったことがないような。
ふわりとした、お嬢様然とした少女が、どんなに切々と、経営について語っても、現場で携わる哉には痛くも痒くも現実味もない。
黙って言いたいだけ言わせておけば、すぐに語る言葉などなくなる。残っているビールを舐めながら、適当に相槌を打って樹理が黙るのを待つ。
言いたいことを言い尽くして、樹理が伺うように哉を見たのと同時に、哉が冷ややかに問い掛けた。
「それで?」
自分に対するその問いと、全く動かない表情に、樹理は自分の思いも考えも、カケラさえ相手に届いていないことに気づいて、とたんに泣きそうな顔になった。そんな樹理に、哉がたたみかけるように聞く。
「そっちの従業員のことを考えて、どうして氷川の従業員のことを考えない? 行野プラスティックの何百倍、何千倍いると思う? 腐ったみかんをそのまま箱に入れておいたら、どうなるかくらい分からないのか?」
遠まわしに、氷川本社が潰れたらどうするのかと聞かれて、樹理にはもう返す言葉がなかった。言っている哉は、そんなことは天地が返っても起こらない事を知っていても、自転車操業に等しい経営状態である父親の会社しか知らない樹理に分かるはずもない。
うつむいたままの樹理に、さらに哉が言う。
「お前は自分の家族も自分も、どうなっても構わないと言ったが、今着ている制服、その学校、授業料と寄付金だけで一年間でいくらかかるか分かっているのか? その安穏とした生活が、一体なにに支えられているのか分かっているのか?」
答えられない。漠然とした額は想像できても、実際父親がどれだけ樹理にお金を掛けてくれているかなど分からない。生粋のお嬢様が徒党を組んでいる現在の学校は、どちらかと言うと成金グループに入り、母親も中流家庭の出である樹理にしてみたら、世界観の違いや、金銭感覚のスケールなど、ついていけない部分の方が大きかった。高校から入学したので、すでに一年半通っているが、未だに帰りの時の『ごきげんよう』と言う挨拶になれないのが現状だ。学校を辞めて働けと言われるのなら、別に未練も何もない。今すぐだって辞められる。
けれど、樹理が学校を辞めたとしても、何も変わらないだろう。
分かっていたことだ。自分がのこのこやってきても、大きな会社の下した決定だ。そうあっさりと覆るものではないだろう。
忙しくて疲れているはずの目の前の副社長が、どういった理由で自分の話を聞いてくれる気になったのかは分からない。いや、分かっていた。何をされてもいい覚悟で、自分はここにやってきた。樹理は、もう一度顔を上げて、絞り出すように言った。
「学校は、辞めます。あなたの言うとおりにするから…だからっ……」
声が震えた。組んだ指を痛みすら忘れるくらいきつく握りしめた。
「だから、父の会社を見捨てないで、ください」
震える声が、さらにか細く咽に引っかかってかすれた。ちゃんと伝わらなかったかもしれない。
しんとした室内に、ガラスと金属がぶつかる音が響いた。
樹理が顔を上げると、ビールの缶をテーブルにおいて、哉がソファの背もたれに身を預けて高い天井を仰いでいた。笑って…いるのだろうか?
嘲われて、いるのだろう。でも樹理には、何もないから。自分以外、持っているものは何もないから。笑われても見下されても。
唐突に哉が背もたれから起き上がった。
組んでいた足を戻して、心もち膝を開く。その上に肘をついて、さらに組んだ手の上に顎を乗せて、樹理を見据える。
視線に射すくめられたような気がして、樹理は息をすることさえ忘れて固まった。
こんな夜遅くに、若い…高校生の少女が、なにを思ってこんなところまでのこのこやってきたのか、やっと察しがついて、訳もなく笑えてきた。
何の事はない、自分を売りにきたのだ。もしかしたら制服で現れたのも、その付加価値を知ってのことなのだろうと納得する。
氷川の副社長も安く見られたものだ。
だいたい、学校を辞めると言うが、彼女の父親の会社が潰れてしまえば、否が応でも辞めざるを得ない。ああいった場所に居る者は、情けをかけたりはしない。敗者にはぎっちりとその傷口に塩まで塗るのが正統派だ。
笑っている哉に、目の前に立つ少女が戸惑ったような視線を向けている。
その期待には添うべきだろうか? お願いされているのはこちらで、さらに言うと哉は一度も彼女に対して楽観的な観測を与える言動は避けている。もし仮に、喰ってしまってもその後、それに従う義理もない。彼女が泣こうが喚こうが、哉には全く関係ない。
起き上がって、少女を見る。大きな瞳を開いてかわいそうなくらい怯えている。何を言われるのだろうとびくびくしながら、それでも哉の言葉を待っている。そのまま放っておけば、延々そこに立ちつづけているだろう。
そのまま放っておくのもいいかもしれないと思いながら、裏腹に自分の口から出たセリフに、哉は今度こそ本当に笑っていた。
「なら、そこで脱げよ」
何が可笑しいのか自分でもわからない。けれど笑いは止まらない。笑いながら、こともなげにそんなことが言えてしまうくらい、自分がひどい人間だとは、今まで知らなかったなと、どこか乾いた心の片隅で考えながら。
「どうした? どうせ辞める学校の制服ならもう要らないだろう?」
あと二口分ほど残った缶ビールを視界に捕らえる。それを流しこむための肴くらいにはなるだろう。
固まったまま今度こそ本当に、瞬きも忘れている樹理にさらに哉がたたみかけた。
「やらないなら…」
それはそれで構わないから帰れと言おうとした哉の言葉を樹理が遮った。
言葉ではなく。
絹が擦れる音が、なぜがとても大きく聞こえた。濃紺のリボンが、ふわりと床に落ちる。
ボレロになった上着を、脱ぎ捨てる。
その動きには一つの色気もなかった。唇をかみしめて俯いたまま黙々と、樹理が服を脱いで行く。
ジャンバースカートの脇にあるファスナーを下ろす。肩を抜けば、分厚い生地を使ったそれは、勝手に重力に引かれて体から離れて行く。
素足の太腿が白いブラウスからのぞく。ゆっくりと震える指で一つ一つボタンをはずして行くのも、哉から見れば無駄に時間をかけてじらすことが目的のように取れてしまう。
すべてのボタンをはずし終わって、一瞬躊躇したあと先に脱ぎ捨てた上着の上に落とした。
下着と、学校指定の白のソックス。
堪らなくなって、腕を前に回して、そっと哉の表情を伺った。所詮、自分のしてきた覚悟などこの程度だったのだと思い知らされた。全て見透かされていたのだと。けれどこれ以上はどうしても進めなかった。
言われた通り制服は脱いだ。もう、これで許してほしいとすがるように顔を上げた樹理が見たのは、死ぬほど恥ずかしい思いをしながら服を脱いだ自分に対して、全くなんの感慨も…先ほどの酷薄な笑みもなく、面白くもなさそうに無表情なままビールを飲み干した哉の姿だった。
ダメだと思った。
この人には何をしてもだめなのだと。
絶望。
樹理を支えていた何かが、切れる音が聞こえた。ひざから力が抜けて、脱ぎ散らした制服の上にぺたりと座りこんでしまった。
絶対に泣かないでおこうと思っていたのに、涙があとからあとから溢れてくる。止めようとしてももうムリだった。
小さくしゃくりを上げながら泣きつづける樹理を、一瞥する。泣かせたのは自分だと分かっているので、あと味が悪いことこの上ない。こうなることなど分かっていたのだから、そのまま追い出してしまえばよかったと後悔しても遅い。
面白くも何ともなかった。
必死で泣きやもうと、深呼吸をしている樹理にふんと鼻で笑って哉が立ちあがった。何をされるのだろうと、びくりと肩を震わせた樹理の頭に、少し湿ったバスタオルが被さった。哉が首にかけていた、バスタオルが。
とても高いところから、冷ややかな哉の声が樹理に届いた。
「泣くくらいなら最初からこんなところに来るな」
まるで樹理が泣いたから気が削がれたとでも言うような口ぶりで呆れたようにそう言うと、哉が奥の部屋に消えた。
言われてまた、涙が出てきた。
掛けられたタオルの端をつかんだまま座りこんで、どのくらい時間が経っただろう。
何とか涙を押し込めて、何も出来ずにバスタオルを被ったままいた樹理が、ドアの開く音を聞いて反射的にそちらに首を向けると、スーツに着替えた哉が、不機嫌さを隠しもせずにずかずかと近づいてくるのが見えた。
「いつまでそこにいるつもりだ? 着替えろ。送ってやる」
驚いて見上げている樹理の横を通り過ぎて、空になった缶を取って、何も言わずに哉がキッチンの方に消えていった。
慌てて服を着て、タオルをたたむ。少し考えてからそれをテーブルに置いて、玄関へ行くとドアの横で壁に背中を預けて目を閉じている哉がいた。
「あの…すいません、私、自分で帰ります」
持ち合わせはないけれど、家に帰れば父か母がいるはずだ。頼めばタクシー代くらい出してくれる。
「……これ以上、ご迷惑、かけるのは」
ぎろりとにらみつけられて、樹理が黙り込む。樹理には、哉が何を考えているのか全く分からない。
「迷惑ついでだ。お前の父親も見てみたい」
また泣きそうな顔をした樹理に歎息して哉は玄関収納の棚に置いた車の鍵とカードキーを取って返事も聞かずにドアを開けて出てしまった。閉まり切る前のドアに樹理は両手をついて靴を履き、ドアのまん前にあるエレベータのドアに向かって歩いている哉の背中を追いかけた。
車内は無言。
響いているのはエンジンの重低音。交差点などに差し掛かったとき行き先を告げるナビの無機質な音声。
車高の低い、銀色の、樹理の知らない左ハンドルのスポーツカー。見たこともない形のシートは、起き上がるのに苦労するくらいすっぽり体を包む。
電話番号を入れたら、ナビはあっさりと樹理の自宅を割り出した。それを聞かれた以外、哉は何も言わずに運転だけしている。電車だと大回りになって乗り間違えずに最短距離でも一時間以上かかるのに、車は時間帯の関係もあるのだろうけれど三十分足らずでついてしまった。
「えっと、ありがとう、ござい…ま?」
わたわたと降りようとする樹理より先に哉が慣れた様子ですんなりと車から降りてしまう。哉の様子に、一度降りようとしてシートベルトをはずしていないことに気付き、取ろうとするがうまく行かない。
「え? あれ? どうしよう」
焦れば焦るほど、ガチャガチャやっても取れない。
「すいません、あの、今はずして降りるのっ…で! ひゃ」
助手席側のドアが開いた事に気付いて樹理が謝りながら顔を上げる。五センチほど離れた鼻先を通った他人の顔に驚いて樹理が短い悲鳴をあげて可能な限りシートに貼りつく。
かち、と言う軽い音と同時にシートベルトが弛む。
きっちりと哉が車の中から体を抜いてしまうまで樹理は一ミリも動けなかった。異性に、いや人にこんな近くまで寄られることなんて毎朝の通学電車の中で、お互い無関心な他人同士以外ここ数年なかった。家族でさえ。
「あり、がとうございます」
かろうじてそれだけ言うが、果たして外に居る哉に届いたかどうかは甚だ疑問が残るところだったが、心の中でよいしょと掛け声をかけてシートから這いあがる。
樹理が車を降りたところで、家の中から車の音を聞いたのか人の気配を察したのか父と母が出てきた。
「樹理! こんな時間までどこに行ってたの!?」
もどかしげに門を開けて、母親が駆けて来た。樹理の隣に立つ哉を見て、視線が樹理に『誰?』と聞いている。
そのあとについてきた父は、さすがに誰なのか分かったのだろう、街灯の下で父親の顔色が変わるのを樹理ははっきりと見た。
「ごめんなさい。パパ」
勝手なことをしたのは分かっている。
帰ってこない娘を本当に心配していてくれたことも、樹理には痛いくらい分かった。
それでも行きたかった。いてもたってもいられなくて。
言葉をなくしていた父が絞り出すよな声で哉に謝っていた。こんなところではと、ぎこちない動きで哉を家に招き入れる。小声で母に、哉が誰であるかを言ったのだろう。驚いたような顔をしたあと何も言わずに樹理の手を取って先に家に入った男性二人に続いた。
自分がしでかしたことに、今更樹理は気付かされたような、気がした。
ナビゲーションが『モクテキチチカクデス』とその役目を放棄する。ちらりと樹理を見ると、彼女が小さい声で伝えた角を曲がった先に建つ家を見て、思わず本当かと問い返したかった。つまりはそのくらい、樹理の家は良くも悪くも普通の住宅街にある普通の民家で、哉が想像していたような、金をかけた悪趣味なつくりとは全く正反対の、すっきりとした普通の、ごく普通としか表現のしようがない民家だった。
車を止めると小さい声だが樹理が礼を言った。別に彼女のためにここまで送ってきたわけではない。応える必要性を感じなかったので何も言わずに先に降りた。
鈍くさそうにシートベルトをいじっている様子に嘆息する。ほとんど他人を乗せたことがなかったので、慣れない上に暗ければはじめての人間ならはずすのに苦労すると言うことを忘れて、彼女のベルトの止め具をはずしてやらなかったのは自分だ。これ以上無意味にいじくりまわされるのも腹が立つ。
ドアを開けると樹理が顔を上げた。謝ってからできもしないくせに断ろうとしたことに更にむかつく。
わざと何も言わずに、わざと体を近づけて驚いている様子を楽しむようにしながらベルトをはずす。
車の中で小さく樹理がまた礼を言っているのが聞こえたが、それも無視する。なんとか彼女が車から脱出したのと同時に、家の玄関が開いて両親らしき男女が出てきた。
慌てて駆け寄ってくる様は、本当に娘を心配していたようだ。人のよさそうな父親は、つい一時間も前に自分の娘が逢ったばかりの男の前で服を脱いでいた事実を知ったらどうするのだろう。
怪訝そうな顔をしている母親とは対称的に父親の方は哉を見た瞬間誰か分かったのだろう。哉は知らなくても、彼等は哉を知っている。新しい副社長は号外の社報で写真付きで出ていたのだから。それでも動きを止めずになんとか謝罪の言葉を口にして、こんなところではと家へ誘った。もちろん、当然のように哉はそれに続いた。
一応、応接室だ。
何故一応とつくのかと言うと、そのまま居間に続いてキッチンまで見渡せるからだ。カベをできるだけ取って家の中に開放感を持たせようとしているのだろうがこれで応接の役割を果たすのかはおおいに疑問が残る。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
父親が、テーブルに額を付けるようにして体を折って改めて哉に謝罪の言葉を言う。
まさか自分の娘が直接副社長である彼のところに行ったとは、思ってもいなかった様子だ。母親の方も、どうぞと出したコーヒーのソーサを持つ手が震えてカタカタと音をたてていた。
「明日にでもこちらからご連絡をしようと思っていたのですが…」
そう言ってちらりと隣で小さくなっている娘に目を向ける。
「明日、ですか」
明日では遅いのだ。本当に取引中止を取りやめてほしいと思うのなら、確かに迷惑ではあるが樹理の様にすぐに行動を起こすべきだと哉は思っている。
含みのある言いかたに、樹理の父親が言い訳をするように『以前の副社長でしたら…』といいかけて口を閉じた。二十歳以上年下の哉に、彼は萎縮している。それは哉の肩書きも大きな原因だろうが、哉自身に逆らうことを許さないある意味独裁者の理不尽さに似た空気があることを、樹理の父親ははっきりと感じていた。
「残念ですが、僕は兄ではない。やり方も全く違いますよ。でも今日でも明日でも、あなたが来られても、状況は変らなかったでしょうね」
どおりで、彼女以外誰も何も言ってこない訳だ。明日でいいと思っている限り、明日はやってこないことを分かっていないのだ。その原因は、兄だ。あの人はにっこり笑って『明日で構いませんよ』と締切りだろうがなんだろうが先延ばしして、彼らを甘やかした。甘やかされた大人はどうしても簡単で生ぬるい方に流れようとする。
この期に及んで『明日でいいか』と考えるものに、情けをかけるつもりは毛頭無かった。
コーヒーカップを取って、飲みながら目の前でうなだれる人物を観察する。おそらく二代目か三代目。会社を興した人間に共通するにおいが無い。おそらく彼の人生自体まったりとしたぬるま湯の中にあったことをうかがわせる、育ちのよさそうな、そんな雰囲気。
しかしこの家といい、至って感覚は庶民だ。彼の工場程度の規模の売上高を持つレベルにありがちな分不相応に金に飽かした、ギトギトした雰囲気がない。見栄を張って娘をあの女子校に入れるくらいだからある意味そういった場所を想像していただけに少々肩透かしを食らった気分だ。このバカみたいに人のよさそうな社長は、きっと兄と性格がよく合っただろう。
少し冷めていたけれど、コーヒーは美味かった。
それを飲んで、一息つく。思った通りの人物だった。
「けれど、お嬢さんは来た」
びくっと樹理の肩が震えた。隣の父親と同じように俯いて膝の上で制服のスカートを握り締めて。
「面白い経験もさせてもらいましたし、そうですね、僕が出す再建計画をそのまま受け入れることが条件ですが、取引中止は見送りましょう」
その言葉に、二人が同時に顔を上げて同じセリフを言う。ほっとしたように笑顔を浮かべかけた樹理が哉の顔を見てすぐに表情を固めた。
「もちろんこれは僕の一存です。社長である父を無視しての」
どうせ全て自分に任されている。どうしようと哉の勝手だ。ここまで業績が悪ければこれ以上悪くなることも無いだろう。どう転ぶか、やってみるのもおもしろい。
トドメににっこりと笑ってみせる。笑顔は表情の中で一番簡単で、一番難しい。特に哉の場合、口元が笑っていても目が笑っていないから、見ていて怖いので頼むから笑うなといったのは誰だっただろう。
樹理にも分かったのだろう、哉が本当は笑ってなどいないことに。父親の方は全く気付きもせずに、おっしゃる通りにやりますと手放しで喜んでいる様子だ。察しの悪い人間より、良い人間のほうが哉は好ましいと思う。そう言う意味では向かって左側にいる少女の方がよっぽどいい。
「重ねてお伝えしますが、これは僕の一存だ。もしも再建計画が頓挫した場合、僕は兄と同じように副社長ではいられないでしょう」
恩を着せるようにも、脅しとも取れる言い方に樹理が唇を噛んでいる。
「だからあなたにも、死ぬ気でやってもらわないと困るんですよ」
顔をこわばらせている娘の横で、父親が分かっています、がんばりますと、本当に分かっているのか、それともただやってくる終わりが先送りされたことを喜んでいるから少々浮かれ気味なのか、嬉しそうに頷いている。
「だからちょっと、担保をいただこうと思うんですよ」
哉が口元の皺を深くする。けれどそれとは正反対に、目は鋭さを増しているのを樹理は見た。
え? とちょっと間の抜けた顔をして、父親が哉を見た。そしてやっと彼はその瞳の中にある冷たい光りが自分に注がれていることに気付いた。いやな汗が背中を流れる。
「再建計画の期間は一年。それまでにも四半期ごとに僕が出したハードルをクリアしていただきます。約束の一年が過ぎるか、ポイントでの結果如何(いかん)ですが」
そこで哉は言葉を切った。視線が、樹理に向く。
「お嬢さんを預けてもらいましょうか」
そこに飾ってある絵をくれ、とでも言うような口調で、こともなげにそう言い放った哉に、思わずたちあがった父親は言葉を無くした。
「こちらに戻ってきて、何を間違ったのかバカみたいに広い家に一人で住んでましてね。ちょうど掃除なんかをしてくれる家政婦でも雇おうかと思ってたんですよ」
座ったままの哉を見下ろす格好になっても立場は逆転しなかった。見下ろされる哉のほうが、圧倒的な優位を保ったままだ。何か言おうとしているのか、ただ息をしているだけなのかぱくぱくと口が動いている。
「期間は最長で一年。もし再建計画が予定通り進まなかった場合でも、ちゃんとお返ししますよ。失敗しても担保はそのまま残って、返って来る。そんなに悪い話だとも思えませんが?」
再びソファに沈みこんだ父親は、絞り出すように言った。それはできない、と。
会社の為に娘を売るようなマネはできないと。
親としては百二十点の答えだが、経営者としては三流以下だ。自分の父親が同じ場面に直面したら、きっとなんの躊躇もなく娘を渡すだろう。それで会社が救われるのであれば安いモノだとでも言いたげに。
ことごとく予想通りだった。どうせこの答えが返ってくるだろうと知っていたから、哉は敢えて希望を与えたのに、彼は自分の意志で、その希望を残してパンドラの箱を閉じようとしていることに気付かない。
漂っていた重苦しい空気を割ったのは樹理だった。
座りこんでしまった父親に代わって、立ちあがる。哉を見つめる。
「行きます」
清んだ、少女のソプラノが場の空気を凍りつかせた。少なくとも彼女の両親は凍り付いている。
なんとか立ち直ったらしい母親が必死で止めている。父親は、言葉も無く娘を見ていた。
会社のことも家のことも樹理は何も考えなくていいのだからと言う母親に、キッパリと首を横に振って言いきった。
「わたしが、行きたいの」
「樹理!!」
母親が悲鳴をあげた。行きたいはずなどない。大事な大事な一人娘を、こんなことに使うなど、この家族には考えられないことなのだろう。繰り広げられる吐き気をもよおすことさえ億劫なくらいベタな家族愛。
「荷物を取って来い。制服のままでいい。学校は今まで通り通えばいい」
「………はい」
哉に見上げられて、樹理は視線を逸らしてそれだけ答えた。そのまま部屋を出ていく樹理を母親が追う。
「………あなたは………」
何かを諦めたような、そんな口調で父親がつぶやいた。
「どう思っていただいても構いませんよ。そうですね。お嬢さんが何事も無く返って来るかどうかは、あなたがどのくらいやってくれるかに、かかっているのかもしれません」
「………っ!!」
「ほら、その顔」
暗い光りをたたえた目を向けられて哉が面白そうに言った。
「その目でがんばればいい。死にもの狂いでね。さっきまでのあなたとは別人みたいですよ」
言い終えると同時に哉が立ち上がる。用は済んだのだ。
「……行野社長。もしも会社が存続できたのならお嬢さんを経営者に据えるといい。あなたよりよっぽど彼女のほうが向いてますよ」
嫌味ではなく本音だったが、哉に返って来たのは歯軋りの音だけだった。
「一週間後にはこちらから計画書を送らせていただきます。それまでに整理できそうな部分があればご自分で」
二階からガタガタと言う音が聞こえてスーツケースを下げた樹理と、通学用のかばんと、小ぶりのスポーツバックをもった母親が降りてきた。
誰に言われるわけでもなく哉は玄関から先に車に向かい、トランクをあけた。どうせ何も乗せていないのだ、大き目のスーツケースも難なく納まる。
エンジンをかけても乗り込まない哉にどうしてだろうと思いながらもそれでも見送ってくれる両親に顔を向けて樹理は精一杯笑う。
「……行ってきます」
二人とも、応えてはくれなかった。
一度だけ頭を下げて、車に乗り込む。樹理が乗るのを見てから、哉が運転席に座った。腹の底に響くエンジン音が一度深く鳴って、加速に樹理の体がシートに押しつけられた。あっという間に、両親も家も見えなくなってしまう。
空いた夜道を思うままに走る車の中で、やっと涙が出てきた。静かに泣く樹理に、信号待ちにひっかかった哉がいらいらしながら樹理を見る。
「決めたのはお前だろう」
そう言われても、分かっていても涙が出るのだ。無駄な加速をつけて、青になった信号をくぐった哉が、うっとうしそうにつぶやいた。
「泣き止め。家についても泣いているようならそのまま返す。もちろん再建の話も白紙だ」
冷たく言い放たれて、樹理がえぐ、と一度大きくしゃくりを飲みこんだ。
理不尽な命令だとしても、自分はこれから一年、彼のものになる。それは、勝手に泣くことも許されないことなのだと改めて知ってまたとてつもなく悲しくなったが、もう涙は出てこなかった。
部屋で荷物を詰めながら母がいつでも帰って来なさいと言ってくれた。
それを聞いて逆に自分の意志では絶対に帰らないようにすると心に決めた。どんなひどいことをされても、絶対に、帰らない。期間は決まっているのだ。それまでは絶対、何があっても、我慢する。父のためでも母のためでもなく、自分の為に。
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