2 店
二駅乗り継ぎをしなくてはならない夏清の終電は午後十時八分。一番短いコースで三十五分。時間どおりに終わったとしても体を洗ったり後始末に二十分くらいはかかるので客一人に大体一時間。
つまり午後九時までに最後の仕事が来なければ、それで帰らなくてはいけないのだ。
夏清が店に入るのはいつも七時少し前と決まっている。三回仕事をするか、二回で終わってしまうかはあと数分間の九時までの時間にかかっている。指名が入れば二重丸だ。
控え室の奥のシャワールームで身支度を整えていると店長が呼んでいる。
「はい?」
「あ、ヒカリちゃん指名入ったから、大変だろうけどよろしく」
「わかりました」
あわただしく薄布をまとって出ていこうとする夏清を珍しく店長が呼びとめた。
「なにか?」
「いや別に、そんなに終電が気になるなら、俺が送ってもいいのになと思ったんだよ。稼ぎたいんでしょ? ヒカリ」
冗談ではない。確かにここまで通う電車賃とてバカにならない額である。生活するのにお金は必要だが、こんな男に送ってもらったら何をされたか分かったものではない。年齢を詐称していることがばれても困る。心の中でしっしと犬でも追い払うような動作をしてにっこり笑って辞退する。
「ありがとうございます。でもいいですから。行ってきますね。ヒカリ、入りまーっす」
そそくさと店長の前を走り抜けて、夏清は店の表へ通じるカーテンをくぐった。
「ほらほら、この子、ヒカリちゃん」
店に勤める女性達の写真の入ったバインダーを広げて、井名里の悪友、真宮真吾(まみやしんご)がうれしそうに指差しているのは、間違っていなければ先ほど路上でぶつかった少女だ。
しかし、土台が分からないほど化粧を施して媚を売るような微笑を浮かべたその写真から、彼のクラスのとっつきにくい学年主席とは別人に見える。確認すべく「女の子、空きましたよ」とやってくる男を振り払ってぎらぎらとした落ち着かない部屋で待つこと約二時間。
「お待たせしました、お客様、ヒカリちゃんです」
重そうなビロード張りのカーテンが引かれて半裸の少女がにっこり笑って現れた。
マニュアル通りの挨拶をしてにっこり笑ったその顔が、引きつっている。
身を翻して奥に逃げようとした「ヒカリちゃん」の様子に、店の男も驚いた様子だが、咄嗟に動けないのか唖然としてみている。
そんな中で、井名里の動きは速かった。
夏清が背を向けた瞬間立ちあがってその腕を掴む。
「悪い、真吾、これ、俺がもらうわ」
同じく唖然とした様子の悪友にそう声を掛け店員に部屋を聞いて夏清を引きずるようにして井名里が待合室を出ていく。
指定された部屋は、入口が開けられていたのですぐに分かった。
その中に放り込むように夏清を入れて、後ろ手に戸を閉める。
苦い沈黙の後、井名里が先に口を開いた。
「渡辺、だな?」
ベッドに座りこんで、できる限り顔をそむけている夏清に、ずかずかと近づく。
何も答えない夏清に、もう一度同じことを井名里が聞く。耐えられなくなった夏清がぐるりと背を向けてしまう。
「お前何してんだ? こんなところで」
半ばあきれたような井名里の言葉にも夏清はぴくりとも動かない。
自分は石、と言わんばかりに。
透けた薄ピンクの短いキャミソール。ブラジャーはつけていないが、下半身は白いサテン地のレースが使われた両脇を紐で結ぶようになったショーツ一枚。
「渡辺!!」
少し語気を強めて名前を呼び、井名里が強引に、夏清の肩に手をかけて振り向かせる。
胸を隠すように腕を回していた夏清は、その力に逆らえずに倒れこむように後ろを向かされる。いつのまにかなくしたと思っていた羞恥心が体いっぱいに広がった。鏡を見なくても自分が顔を真っ赤にして泣きそうになっていることが分かる。見下ろす井名里の顔が見れない。
「な、なによ。自分こそ何しに来たのよ? ああ、そうか、学校にばれちゃった? それで先生、見に来たの?」
この仕事をすると決めた時から、ばれる事などずっと覚悟していたはずなのに、声が震えて、うまく言えなかった。相手が井名里だからだろうか?
「だってしょうがないじゃない!? 親も居なくて、おばあちゃんも死んじゃって、それでも学校行きたかったんだもん。他の普通のバイトじゃ勉強する時間まで取られちゃうわ。この仕事だって需要と供給じゃない。働いてる私だけ悪いわけじゃない!!」
下を向いたままだと本当に涙が出そうで、立ったまま夏清を見下ろしている井名里を上目遣いでにらみつける。
「って、お前、親戚のとこに居たんじゃないのか?」
入学前の資料では、たしかそうなっていたはずだ。遠縁の家で世話になっている、と。
「居られるわけないじゃない。お、襲われたのよ? 実の従兄と、叔父さんに!!!」
どうして自分がこんなところで担任教師に身の上話をしているのか分からなくなる。
「殴られて、何回も何回も犯されて、ぼろぼろにされたのに、あの家の連中、なんて言ったと思う? 私が誘ったんだって。お前が居るから家の中がおかしくなっちゃったんだって……叔母さん……やさしいと思ってたのに……私のこと、汚いもの見るみたいに……」
言いながら思い出して、堪えきれずに涙が溢れる。
「いいの。どうせ、処女でもないんだし。でもばれたなら、辞めなくちゃいけないよね。学校」
短い沈黙。
「別に、ばれてない。俺がここに来たのは偶然だ」
ばれていない、と聞いて夏清の顔がぱっと明るくなった。
「そんなに行きたいのか? 学校」
その姿に苦笑しながら井名里が問う。
「だって……高校と、せめて短大くらいは出ておかないと、ほんとに一生この仕事しなくちゃならないもん」
「好きでやってるわけじゃないのか?」
「私は、好きじゃない。だからいつか辞める。お店には好きでやってる子もいるけど」
ほっとしたのか、刺を立てたハリネズミのように夏清の体中から発せられた威嚇が薄くなる。
「じゃあ今、辞めろ」
「なっ! 聞いてなかったの? この仕事しなかったら私、あっという間にホームレスよ?」
「後のことは後で考えろ。とにかく今すぐ辞めろ」
何を言っても辞めろの一点張りの井名里と辞めることはできないと拒否する夏清。議論は平行線をたどり、同じ応酬を十数回繰り返した後、井名里がため息をついた。
「わかった」
「じゃあ続けてもいい? 学校に言わないでくれる?」
了解とも取れる井名里の言葉に、先ほどよりもずっとうれしそうな顔で夏清が目を輝かせている。仕事は好きではないが、世の中好きな仕事をしている人など一握りもいないのだ。夏清はちゃんと稼げている分御の字だと思っている。
「ああ、ただし」
「ただし……?」
もともと淡白で冷たい印象の顔をした井名里が、薄い唇を引き上げると、なんとも言えないサディスティックな表情になる。
いやな予感を感じながら、夏清はごくりとつばを飲み込んだ。
「なんだかんだで残り約二十分か」
腕時計を見て、つぶやくように井名里が言う。
「時間制限までに俺をイカせられたら渡辺、お前の勝ちだ。誰にも言わないし仕事も続けていい。でも……」
夏清には先を促すことが、怖くてできなかった。黙ったままの夏清に、井名里がにやりと笑って言った。
「俺をイカせることができなかったら、辞めろよ。もちろん賭けを拒否してもいい。そのときは問答無用で学校に報告……」
「やるわよ!」
やけくそになって夏清が叫ぶ。怒ったようなその顔をみて笑った後、さりげない動作で、井名里が夏清の隣に座る。
「どうぞ、早くしないと時間がどんどんなくなるぞ?」
呆然としていた夏清もその言葉にはじかれたように立ちあがる。
「え? あの、シャワーは?」
「そんなヒマあるのか?」
ない。こうして躊躇している間にもどんどん時間は無くなって行く。時間がもったいないから、とシャワーを拒否する客もいるので部屋にはおしぼりが大量に置かれている。それを思い出してとりあえず掴めるだけ出す。
ベッドに座った井名里は、全く自分で動くつもりはないらしく服を着たまま夏清を見ているだけだ。
いつもは「こう言うとこ、良く来るの?」とか「どこからきたの?」とか他愛もない(?)会話をしながら脱がしていくのに、こうも自分の一挙一動をじっくり観察されていてはなんだか居たたまれない。
店長が着ているものとは比べるのも悲しいくらい安っぽいスーツのボタンを一つずつはずす。ネクタイを取り、ワイシャツの小さなボタンをはずそうとする指が震えているのが分かる。歯を食いしばって、震えを止めるために指を一度握る。スラックスに入ったワイシャツを引き上げて全てのボタンをはずし、両側に開くと井名里の上半身が安っぽい蛍光灯の下に現れる。中肉中背、筋肉も脂肪も可もなく不可もなくついた体は、自然な形を作っている。
そんなにじろじろ見ているわけにもいかない。かっちりと締められたベルトがいまいましい。
悪戦苦闘しつつそれをはずして、ファスナーに手をかけるが、なんとなく続けられずに動きが止まる。
「どうした? あと十分もないぞ?」
からかうような井名里の声にきっと夏清が上目遣いににらみつける。躊躇して止まった手を動かして、ファスナーを一気に引きおろす。
「スラックス、降ろせないから腰あげて」
怒ったような、命令口調の夏清の言葉に井名里が素直に腰を上げる。息を吸って目を閉じて、夏清は一気に引き降ろす。
そこまでして、一つ息をついて夏清は立ちあがった。
目の前に、宿敵とも思っていた担任が、半裸で座っている。上体を心持後ろにそらしてそれを支えるために腕を後ろに立てている。
生暖かいおしぼりでふいていても、井名里の股間のものは全く反応しない。半裸なのは自分も同じなのに、お前なんかじゃ無理、と言外に言われているようで悔しい。
キャミソールの肩紐に手をかけて、すべり落とす。
やたら薄くても、着ているのと着ていないのとではいろいろ精神的に違ってくる。たったこれだけで、ナゼだかとても心細くなる。
「下は? 俺は別にいいけど。本番はナシだろ?」
実際に、挿れることはなくても、そこを見せることでの視覚的興奮を誘う方が早くイってくれる。
腰の紐にも手をかけるが、こっちは一息に、とは行かない。短い夏清の躊躇に、井名里が笑う。
悔しい。涙目になりながら、片方ずつ紐をはずす。
音も立てずに軽い布が床に落ちる。
「へぇ」
一糸まとわぬ姿になった夏清を見て井名里が興味深そうにそうつぶやいた。
「な、なによ」
「剃ってるのか? それ」
「違うわよ! 生えてこないんだからしょうがないでしょう!? じろじろ見ないでよ」
胸やその他の発育からして、普通生えていなければおかしいが、夏清のそこは子供のようだ。そのせいで縦に一本引かれた筋が、やたら目立つ。
それで、井名里も納得する。
ここに彼を誘った悪友が、やたら夏清に執着していた理由だ。
どちらかと言うと、三次元より二次元の、しかも小さい女の子が好きなヤツが、どうしてこんなところに、井名里を誘ったのか。夏清の特殊とも言える容姿は、おそらくその手のマニアの間ではうわさになっていたのだろう。
井名里自身は、学生時代からちょくちょくこの手の店には世話になっている。こういったところのシステムが分からない真宮は慣れているであろう井名里に白羽の矢を立てたのだ。
「何考えてるの?」
ふと気づくと、目の前に夏清の顔がある。不機嫌さを隠さない夏清の顔。
「別に」
それだけ言った井名里の頬を、夏清が両手で包む。
触れ合った唇は、お互いびっくりするくらい乾いていた。
夏清が唇を割って舌を入れても、全く拒否する様子もなく井名里はそのまま受け入れる。その代わり、全く自分は動かない。とことん受身に徹するつもりなのだろう。
のしかかって、キスと同時に股間をすり合わせる。
口の中の唾液があわ立つくらい必死でキスをして顔を離す。媚びるように潤んだ瞳をつくって顔を見て様子をうかがっても平然とした様子だ。もちろん下の方も全く反応を示さない。
「どうした? あと五分……三分切ったか」
「三分あったら充分よ! 二分で終わらせてやるから」
口の周りの唾液を、乱暴に拭う。手の甲に、専用のメイク落しを使わないと落ちない口紅が薄くついた。
体をずらして、視線を落とす。井名里の肩にかけていた手がするすると胸板、腹筋を伝う。
口の中に溜まった唾を飲み込みかけてなんとかとどまる。手で持てば、立ちあがらないまでも、最初にふいたときより硬度は増している。
実際、風俗嬢にはちゃんとテクニックがあるのだ。精神的肉体的に欠陥でもない限り、大抵の男は三十五分で一度はイク。つぼを押さえたフェラを本気でやれば、半数が三分どころか二分も持たない。
裏からなめ上げて、先端を口に含む。舌で先をなめてから深いストロークを繰り返す。恥も外聞もない。とにかくココをクリアしないかぎり、夏清は仕事を辞めなくてはならない。そんな焦りからか、夏清はいつもどおりやっているつもりでも、井名里から見れば動きが空回りしている。
男から、その様子が全て見えるような角度を取って、潤んだ瞳で見上げる。意図的に鼻から漏らす息に音を混ぜる。ぴちゃぴちゃと唾液を全体にまぶして、卑猥な音がより大きく聞こえるように。
それでも少しづつ口の中のものが硬くなっていく。手応えを感じながら懸命に頭を振っていた夏清に、無常なタイムアップを知らせる店員の声が降り注いだ。
「残念だったな」
がっくりと両手をついてうなだれている夏清に、からかうような井名里の言葉が重力を無視した速度で突き刺さる。
「っ!! 信じらんない! 絶対インポでしょう!?」
唾液を飛ばしながらやけくそになって夏清が叫んだ。どう考えても、十代の女の子が言っていい言葉ではないし、普段の夏清なら絶対言わなかった言葉だ。つまりはそのくらい、夏清は怒っていた。いろんなモノに対して。その最たるものは自分自身だ。見つかった時点ですっぱり学校は諦めて、大検を受けるほうを選べば良かった。
「まさか。自分の未熟さを人のせいにするのか?」
さらりとそう言い放つと、井名里は一人とっとと服を着ている。自分自身でわかっていることなので、夏清は言い返すことができない。
どこかで聞いたセリフだ。記憶の中を探って思い出す。
学校の廊下だ。隣のクラスの女子が数人、井名里に抗議したのだ、授業のペースが早すぎて数学が全然分からない、と。その彼女達に、同じように井名里は言っていた。
「自分達ができないからと言って人のせいにするのか? ついてきている生徒も大勢いるのにどうして自分だけできないか、まずそれを考えろ」
ひどい言いぐさである。夏清など、数学が終わるたびにクラスメイトに囲まれておのおの分からない個所を質問され、それに答えなくてはならないのだ。そっくりそのままセリフ返したい。
「三分だ」
「は?」
「三分で着替えて来い。逃げたら承知しないからな」
「っ! 無理!!」
「できるんだろ? 三分と言わず二分でも?」
ニヤニヤと笑いながらネクタイを締めて、井名里が意地悪そうにそう言う。
「わかったわよ!! そっちこそ店長に殴り飛ばされても知らないからね!!」
脱いだ服を抱えて悔し紛れにそう応えてから夏清は走って控え室に帰っていった。
その姿を見送って、携帯のメールを打つ。もちろん真宮にだ。『俺は帰る』とだけ。
裏通路から、服も着ないで帰ってきた夏清に店長以下控え室の面々が目を丸くする。
「ヒカリちゃん?」
小さな洗面台でがらがらとうがいをして、飲む消臭剤を口にほうり込む。鬼の形相で服を着替えている夏清にそーっと店長が声をかける。
その店長をにらみつける。目で人が殺せるのなら多分店長は即死していただろうくらい、ものすごい眼力で。
わけのわからないまま当たられた店長がもごもご口を動かしながら次の言葉を探しているとき、表に続く控え室のドアが派手な音を立てて開かれ、店員を押し切って入ってきた井名里が立っている。
「あーお客さん、困るんっスよねー こんなところまで入られると」
なんとか体勢を取り戻した店長が、人をなめたような口調で井名里を押し戻そうとする。
「悪いがもう客じゃねぇんだよ」
「それは、どういう?」
わけがわからず問いなおした店長に、バカかお前、と言う視線を投げた後、コートを羽織った夏清の腕を取る。
「困りますよ、彼女ウチの商品なんですから」
勝手に触らないでくれと、店長が井名里の腕を取る。
「聞いたか? 商品だってよ」
あざけりを含んだ井名里の言葉に、夏清の胸が痛む。好きでやってるんじゃないと大声で言いたかったが、店長にとっては夏清など商品でなければ使い捨ての消耗品程度の価値しかないだろう。
「なら俺はコイツの保護者だよ」
「保護者って、アンタ……」
「コイツの歳教えてやるよ。十五だよ十五」
「ちょっ! 間違えないでよ先週誕生日来たから十六になったわよ!!」
思わずそう言って、はっと夏清が口を覆うがもう遅い。
たまたま一仕事終えてそこにいた、夏清に良くしてくれていた現在店のナンバーワンの女性が、あちゃー言っちゃったよこの子、と言う顔で天井をあおいでいる。
歳をごまかしているだろうと思っていた店長も、十五と聞いて唖然とする。少なくとも先週までは彼女は十五だったのだ。
「ってことだ。警察沙汰になって営業取り消されるのと、このまま知らなかったことにするの、どっちが得か分かるよな?」
この地域の条例では十八歳以下の子供にそういった行為をさせた場合、営業許可が取り消される。知らなかったでは済まない。
「行くぞ」
黙ってしまった夏清の手を引いて、井名里は堂々と、裏口からではあるが、店を後にした。
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