7 恋心
どのくらい救われただろう。
見ているだけ。なのになぜか気になる少女がいた。人の輪の中で控えめに微笑んで、誰にでも平等に。一線を引いて。
傲慢ではなく、他の生徒と自分の違いを知る少女。時折何かを諦めたようなそんな顔で大きく息を吸う姿。
人が死ぬときというのは、息を吸った息を吐けなくなったときだと言う。だから人は『息を引き取る』のだと。
だからもしかしたら、自分は知っていたのかもしれないと、今頃気づく。
そのときからもう、どこかにいた、息を吸い、吐くことが苦痛だったずっと昔の自分と、目の前にいる彼女が同じだと、分かっていたのかも知れない。心のどこかにある欠けたパズルのピースを見つけたような、そんな既視感に似た、同じものが放つ何かを嗅ぎ分けていたのかも知れない。
けれど、その時は本当に自分がそんな風に感じていることなど気づきもしなかった。どうして無意識のうちに自分が彼女を目で追っているのか分からなかった。いつも視界の端に彼女を捕らえて、その存在を確認しないと落ち着かなかった。
いつからだろう。もっと笑ってほしいと思うようになったのは。
自分の出す問題を解いて、ほっと微笑む顔が見たくて。
見えないどこかで一人で泣いているのではないかと、いつも気になっていた。
どうしてそんな風に思うのかも気づかないまま、彼女を見続けた。
彼女に手ごたえを感じさせて、なおかつ解ける問題をいつも考えていた。
どんどん挑戦的になる自分を抑えられなかった。自分の持つ世界が全てたった一人の少女のために回っていた。
そんな自分の変化に戸惑った。だから一番当たり障りのない友人に電話をかけた。いつになく饒舌に喋り続けた自分に、彼が一言投げかけた言葉。
「で、お前はずっとそうやって視姦しつづけるだけなのか?」
視姦。
そう言われても反論のしようがなかった。事実ずっとそうしてきたのだから。
視姦し続けるだけ。
そう言われてもどうしようもなかった。
実際に手を出して、一人で感じているこの感情を拒絶され壊されるくらいなら何も言わないほうがいい。
しかし認識させられた感情はそれまでのようにおとなしくしていてはくれなかった。
立て続けにみる夢は全て彼女が出てくるのだ。
嫌がる彼女を無理やり組み敷くのは自分だ。
胸の奥にある黒い欲望はいつも攫って閉じ込めて、あの少女を自分だけのものにしようとささやきかける。
縛り付けて目隠しをしてその全てを奪ってしまえと誘惑する。
一年近く付き合っていた女に振られたのが年末。振られた理由は簡単で、とうの昔に自分の興味はその女ではなくあの少女だけに向かっていたからだ。別れましょうと切り出されてそうだなと頷いた。オーダー票を取って立ち上がって背を向けたとき何か言われたような気がしたけれど思い出せない。
このままおかしくなるかもしれない、そう思っていたときだったのだ。風俗に行かないかと電話がかかってきたのが。
一人ですれば想像の中には彼女しかでてこないのだから、終わったあと体はすっきりしても心がぐったりするので、だれでもいいから何も考えずに全部すっきりさせてほしくて同行することにした。
偶然の出会い。
必然のチャンス。
授業ではいつも気づかれないように負けていた。わざとらしくならないようなギリギリのラインを探して。けれど、それは負けることができない勝負。
思い出せば笑えてくるほど必死だった。
自制心もメーターが振り切れば欲望を押さえつけることができるのだと分かったがおそらくあれ一回きりだろう、あんなことができるのは。負けられなかった。自分自身にも。
絶対に手に入れることができない。そう諦めていた少女を家に入れる。夢に見たのと同じように、縛り付けたい衝動を抑えてできるだけ普通に振舞う。
提案。
当然の拒絶。
素直にこの思いを伝えられない自分。
逃げられて。
追って。
ただ放したくなくて、何も考える間もなく手を引いて思わず押し倒して、気づく。
がたがたと震えるその細いからだ。
そうしたことで自分がただ彼女に恐怖だけ与えていることを。
無理やり、たくさんのものを奪われてきたと聞いたばかりだったのに。
震えながら泣く姿が、自分が泣かせたことが、その涙が、真上で見下ろしていた自分の中に突き刺さった。
今だって、いつだって泣かせたくはないのに、彼女を泣かせるのはいつも自分だ。
泣かないで。
笑って。
心の底からの想い。
透明な涙はきれいだけれど、それよりも笑顔のほうがずっときれいだ。
だから、自分の中のあるがままありったけ。その想いで満たして。好きだと、ただそれだけをフル動員させた。
自分がそのときどんな顔をしていたか分からない。
そうやって心の中をひとつだけにして、出てきた言葉は。
『キスしていいか?』
懇願だったのかもしれない。でも本当にただそれだけ、どうしても口付けたくて。
本気で驚いたのだろう。透明な涙に洗われた瞳を見開いて。
そしてなぜか彼女は頷いた。
ずっと好きだったと、ずっとこうしたかったと軽々しく言えば嘘になりそうでただキスを繰り返した。唇で触れる肌はどこもかしこも想像していたよりもずっと滑らかで甘かった。
ひたすらキスをした。何か伝わるかもしれない。そう思いながら。
唇を離して見つめれば、とろけたような瞳で見上げられて、ずっと一人心の中で呼んでいた彼女の名前が無意識に零れ落ちた。
夏清。
見上げる瞳から涙がどんどん膨れ上がった。また泣かせたことは分かってもどうして、なにが夏清を泣かせたのか分からなかった。
そのくらい唐突に泣き出されて、生まれて初めてどうしていいか分からなくなった。
どうしてあげればいいのか、分からなかった。
逡巡して抱き上げたらそのまましがみついてきた細い腕。嫌だと拒絶されなかったことがただうれしかった。
小さくて柔らかくて暖かくて、抱きしめたからだがどうしようもなくいとおしくて。けれど何人かいる自分の中の自分が、ほらこれが最後かもとささやくからどさくさにまぎれて撫でるフリしてどさくさで触りまくった。
ずっとずっと、その髪に触りたかった。手を取りたかった。
髪を撫でて背中をさする。大切な大切なものをそっと抱きしめる。
先ほど無理やり泣き止ませた分まで思い切り好きなだけ泣けばいい。泣きたいのならばそのほうがきっと。泣き続ける彼女をとめることができないのだから、泣き止んだとき一人でないように、安心して泣けばいいからと抱きしめた。
これでもかと声を上げて泣きじゃくる姿と、いつも見ていたクールなイメージのギャップ。彼女の中にこんな幼い部分があるなんて、自分以外誰が思うだろう? 知っているだろう?
ひとしきり泣いて、泣き止んで、照れたように笑ってごめんなさいという姿もいとおしくて。
どうして優しいのと問う戸惑いを隠さない揺れた瞳がかわいらしくて。
初めて知る。
これが、優しい気持ちだと。
優しいということ。
それを気づかせてくれたのは夏清だ。
自分の気持ちが分かればとても簡単だった。
だから分かってほしかった。
夏清なら自分で気づいてほしかった。
人の心なんて分からない、けれど、名前を呼ばれてうれしかったと夏清が自分の心の中を探るように視線を泳がせた。
見つめ続けていたら、恥らうように視線を逸らすしぐさ。ほんのりと染まった頬がとてもきれいで、その細い顎を掴んでキスをしたのは本能だった。
こっちを見てほしい。
自分を見てほしい。
その瞳に映るものが自分だけならもっといい。
柔らかい唇を奪って、全部伝わるようにと祈りながらキスを繰り返した。
全てを委ねるようにキスを受け入れる夏清に気をよくしたのも事実だったけれど、これはいけるかもと寝室に連れ込めば、さすがにおびえたように腕の中の夏清が体を固めた。
それなのに、嫌だと言わない。
必死で受け入れようとするその姿に答えがある気がした。
急がなくてかまわないのだとなぜか安心した。
音を立てて変わっていく気持ち。
こんな恋愛は初めてで、欲望よりも勝る、腕の中のものへの大切な気持ち。
戸惑いを見られたくなくて、知られたくなくてはぐらかすようにしかできなかった。
それまでずっと自分を作って生きてきた。自然に素直に、上手くその気持ちを表すことができなくて、からかうような態度でしか接することができなかった。
多分、彼女は飢えていただけだったのだろう。優しさに。
そうやってすがるように自分に全てを許す彼女に、戸惑っていたのだ。だから、確かめたかった。どこまで自分が許されるのか。
どこまでも必死で、なにをしても受け入れる夏清に溺れて限界を見失ったのは自分だ。
もっと普通に、確かめるようなことをせずに愛していれば、彼女が嫌な夢を見ることはなかったはずなのに。
あの時、あの小さな手の震えを、自分は絶対に忘れることが出来ないと思う。
強く強く握っても、止まらないほど震えた手の冷たさを、忘れてはいけないと思う。
それでも自分を求めて泣く姿を、死んでも忘れない。
何度泣かせただろう。
何度許されただろう。
何度癒され、安らぐことができただろう。
何度、これからまた泣かせるだろう。
ふたをしていた記憶。
追っていた影。
昔の自分。
暗い場所でひざを抱いて一人で泣いていた自分をなかったことにしていた。
気づいたら、とても簡単なことだった。
同じにおいのする少女を護りたかったのだ。幼くて何もできないままだった自分自身を救いたくて。
そして、護られている自分。
確かに腕の中にあるその細いからだのナカにある無限。
世界で一番近いもの。
世界で一番、大切なもの。
言葉にするとチープだけれど、世界中の誰よりも愛する人に愛されるということ。
ただそれだけで、幸せだと感じられることは、やっぱり幸せなことで。
ゆっくりとまどろむように、ふわりと微笑んだまま眠りにつける幸せ。
与えられるもの。
彼女に。
自分に。
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