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2−1 道彦の場所
どうにかボロを出さない程度に、授業もそれなりに自分の予定通り進めることができている。
一番最初の難関は、中間テスト。テストを作るのがあんなに大変なことだとは思わなかったよ、本当に。適当なコト書いてていい論文の方がいくらかマシだ。
ああでもないこうでもないって三日かけて作って、現国の結城先生に日本語をチェックしてもらい、六箇所のリテイクの末なんとかできた。
設問が簡単だったのか、みんなよくできたるのか、僕の教え方がよかったのか、平均点も結構高かった。どんぐりが背比べしてるようなもんだ。これでどうやって成績をつけたらいいんだろう。
「はー疲れる」
六月。梅雨の前の晴れ間を見上げながら、紙パックのコーヒーをすする。
驚いたことに、この学校には学食も、購買もない。全校生徒が三百人くらいで、しかも毎日どこかのクラスが調理実習を行っているような学校である。確かに、学食があっても商売が続くわけもない。
教師も、出前を取るか弁当を持ってくるか、学校の近くの駄菓子屋でパンとコーヒーを買って来るしかない。
屋上は一般の生徒が入れないので、こっそり職員室から鍵を拝借して、晴れた日はここで食べることにしている。
自分が高校生の時、男臭い学校に通っていたせいか、このふわふわした雰囲気がどうもダメだ。調子が狂って仕方がない。
ぽかぽかと暖かい日差しの中で、一瞬睡魔に襲われかけたその時、屋上への入口が、がちゃり、と開く音がする。おかしい。こちらがわからちゃんと鍵はかけておいたのに。
入口になる屋上に乗った豆腐のような建物の上で寝ていたが、起きあがって誰が来たのか確認しようとしたその時。
「やっぱり。ここにいた! いつもここにいるんですか?」
器用に弁当箱を左手に持って、ひょいひょいはしごを登ってきたのは。
「由紀ちゃん……」
「あ、まだその呼び方ですか? 苗字苗字!」
かわいらしいハンカチで包まれた弁当箱を置いて、いにょ! っとかいう変な掛け声とともに上がって来る。
「うひゃっ」
思ったより風がきつかったのだろう、由紀ちゃんが再び変な声を上げてめくりあげられるスカートを押さえてぺったりと座り込む。
「見、見えましたか?」
「見ませんでした」
真っ赤になってそう聞いてくるので素直に答える。ひらひらして短いが、生地が多いせいか逆に中が見え辛い。見たいわけじゃないけど。
「あれ? スカートの生地って、でもそこまでフリフリしてなかったんじゃない?」
「わかっちゃいました? 改造してみたんです」
すそをちらりと持ち上げて、気付いてもらえたことが嬉しいのかやっぱりにこにこ笑っている。
「いいの? それ」
「はい。ウチの洋裁の授業、まず自分の制服のマイナチェンジなんですよ?」
そう言えば、夏服には半袖しかなかったのに、彼女の夏服は長袖だ。まあ、それは……傷のせいもあるのだろうけれど。
「先生、ひもじいですね。作ってくれる人いないんですか?」
食べかけの菓子パンをみて、彼女がそう言う。
「悪かったねぇ 初めての授業のときも言ったけどこう見えても彼女はいるんだってば。家事全般できない人だけど。君は? お弁当作ってるの?」
「はい。お弁当は私が全部作るんです。おじさんと、おばさんと、佐貴ちゃんと希一さんと駿君のと、自分の」
「すごいね」
「私、料理するのもお裁縫するのも好きだから」
言いながら開けたお弁当箱の中身は、いろとりどり、かなり充実した内容。
「はーほんとにすごいね」
「へへへー卵焼き力作なんですよ。一個食べます?」
「もらっていいの?」
「いいですよ」
弁当箱のふたに、卵焼きと肉団子、フライドポテトに鳥の唐揚げ。
「そんなにいれたら君が食べる分なくなっちゃうだろ?」
「いいです。ダイエットもしなくちゃだし」
「ダイエットって……全然太ってないでしょ?」
と言うより、むしろ華奢。この年頃の女の子を間近で見ていて分かったんだが、女子高生って体型がごつい。上半身はそうでもなくても足とか下半身は結構、太い……そんな感想を彼女達や奈留美に言ったら何言われるかわからないから黙っているけど……それでも由紀ちゃんは、白くて細くてちょっと押したら折れそうだ。
「見えないところがすごいんです」
「そんなの見えなきゃいいでしょう」
それでも、どうぞと差し出されたそれは本当においしそうで、ありがたく戴くことにする。
「じゃ、代りにコレをあげよう」
まだ食べてない、いつもは買わない甘そうなパン。
「わぁコレ、ソーコたちがいつも買いたくても買えないって言ってたパンだよ。すごい先生、ありがとう。ダイエットは明日からにします」
あっさりとそう言うとすでに袋を開けている。
「僕が買いに行くときはいつもあるよ」
火曜と木曜、授業は二日とも二時限と三時限と五時限。つまり生徒より早くパンを買いに行くことができるのだから当たり前である。
「じゃあ先生、火曜日と、木曜日、私のお弁当とこのパン、代えっこしません?」
「でもここにいるのは晴れの日だけだよ」
「じゃあ晴れの日だけ」
「そんなにそのパン食べたいの?」
「はい。食べてソーコやキッカに自慢しなきゃ」
言い終わって、もう食べ始めている。本当にいつでも幸せそうに笑ってる子だなぁ
「自慢されるのもなぁ……ほら、変な噂がたったら困るでしょう」
「んー じゃあ秘密にします。だめですか?」
食い下がるね。
「わかった。いいよ」
「やったー じゃあ先生、どうぞ。まだ私口つけてないから、お箸も使っちゃってください」
両手を上げて、勝利のポーズ。僕の気が変わらないうちにと、そそくさ弁当箱を押しつけてくる。
「そんなにおいしいの? 僕はこっちの方がおいしそうに見えるけどなぁうん。この唐揚げどうやって作ってるの?」
量は少ないけれど、かなり充実した栄養バランス。文句なくおいしいかった。
「んー 確かに、おいしくできたら嬉しいんですけど自分で作ってるからこう、開けた時の喜びと言うか、何て言うのか……毎日だと飽きるんですよね」
そんなもんなのかな。
「ところで、どうやってここに入ってきたの? 鍵かかってたでしょ」
もごもご口を動かして、右手をかざしてちょっと待ってのポーズ。きちんと飲み込んでから喋りなさいと、ちゃんと教えられていたのだろう。
「コレ」
そう言って彼女が指したのは、耳の後ろに刺さってるヘアピン。先が妙に曲がっている。
「まさか、それで?」
「開きましたよ?」
そんな簡単に…
「もしかして由紀ちゃんって手先器用?」
「どうでしょう……自分ではよくわからないです」
「器用だよ。弁当の中身にもあらわれてる。制服も、すごく自然だし」
「そうですか? そうだったら嬉しいです」
「それだけできたら将来は家庭科の先生とかになるの?」
食べ終わったパンの袋を几帳面にたたんでポケットに入れながら、彼女はゆっくり首を横に振る。
「笑わないで下さいね。私、私の家族を作るのが……お嫁さんになって、お母さんになるのが夢なんです」
「はい?」
すごい。今時そういう子がいたのか。
「笑わないでって言ったのに」
「ごめんごめん。でもなぜ?」
「……先生は、知ってますよね。私の家族、事故で死んじゃったって」
笑っていた彼女が、ふと、真顔になる。その横顔は、十六歳とは思えないくらい深く暗いなにかを宿している。
「いま、杉田の家で虐められてるとか、そういうのは全然ないんですよ。みんなすごく私のことかわいがってくれて、大事にしてくれるんです。実の娘の佐貴ちゃんが公立高校出て国立大学に行ってるのに、私のことこんなお金のかかる女子高にいれてくれるし、大学も短大も、お金のことなんか気にしないで行きたいところに行ったらいいって言ってくれるんです」
澄んだ瞳は、どこか遠くを見つめている。
「でも……私の家族じゃないんです」
しばらく黙り込んだあとで、やっと意識が戻ってきたように、いつもの笑顔。
「だから私、私の家族を作りたいんです。毎日家族のためにいろんな事をしたい。無くさないように、絶対大事にするんです」
ほとんど食べ尽くしてしまった弁当に目を落す。
おいしくて充実したこの弁当を家の人間みんなの分作ってさえ、彼女の中で杉田家の人間を、自分の家族と思えないのだろうか?
「なれるよ」
君なら。
「きっとなれるよ」
やっとそれだけ言って、残りの弁当を食べてしまう。ちらりと横目で見た彼女は、泣きそうな顔で、笑っていた。
2−2 引き続き道彦の場所
家族。家族と言う単位。家族と言う存在。
そんなもの、彼女に言われるまで、全然考えた事もなかった。僕にとって家族って言うのは、あって当然のものだったから。
祖父母がいて、父がいて、母がいて、姉が五人もいて、猫と犬がいて。
離れていても彼らは僕の家族で、いっしょに住んでいなくても、家族は家族。祖父母はもう亡くなってしまったけれど、それでも生きている間は大切な家族だった。つまりは由紀ちゃんにとっても、今でも死んだ両親と弟が家族なんだろうか?
改めて、家族ってなんだろうと考えても、普通よりは人数が多めだけれどごく普通の家庭で、ごく普通に育ってきた僕には、その定義は当たり前すぎて、ひどくあいまいにしか捕らえることができなかった。
「なあ、家族ってなんだと思う?」
「はぁ?」
突然の僕の問いに、奈留美が呆けたような応え方をする。
「ナニ? 熱でもあるの?」
久しぶりに休みが合って、お互いに見たい映画の意見が一致。ついでに僕の給料が出て今日は久しぶりにおごらされている。
「まじめに聞いてるんだから」
からかうような奈留美の返事。
「知らないわよ。ま、分かってるのはあなたと私は家族じゃないってことくらいよね」
パスタをつつきながら、面白くなさそうに奈留美が答える。
「どうしたの? 急に」
「なんとなく、なんなのかなと思ってさ」
「あら、それってプロポーズ?」
「違う。からかうなよ」
「どっちがよ」
とたんに場が剣呑な空気に包まれる。もしくは白けた空気が漂うこともあるが、最近こうなることが多い。
「悪いけど、僕は今、結婚とか全然考えてないから」
「あ、そう」
「自分が言ったんだろう? 仕事のほうが大事だって」
「そうね」
奈留美がそっけなくそれだけ言って、肩までの髪を耳にかけて、食事を再開する。
実際、同棲を始めたばかりの頃は、僕のほうがしつこく結婚、結婚って言っていた。研究も、確かに大学にいたほうが自由にできるけど、別に企業に入っても続けることはできる。だから彼女が望むのなら、就職しようと考えていた。
しかし、その頃やっとインターンを終えて自分のペースで仕事が進むようになった奈留美は、結婚することによるデメリットを考えてそれを拒否した。
僕は別に、彼女一人に家事を押し付けるつもりもなかったし、すぐに子供がほしかったわけでもなかった。
多分、ただ彼女のことが好きで、大切だったからこそ、結婚しようと言っていた。
二人の意見は一致することなく、結局そのままずるずると、現在まで至る。
三十になり、忙しいことに変わりはなくても、落ちついてきた彼女と、二十八になって、やっと研究が軌道に乗ってきた僕。
最初に食い違ってしまった時間と、掛け違ったボタンの位置。溝は、どんどん深く広くなっていく。
なのに、きっぱりと別れることができないのは、まだお互いがお互いのことを好きだからなのか、ただの馴れ合いなのか、まだ判断しきれないまま、自分の中の答えが、良くわからない。
うまいって評判の店なのに、もう味もわからなくなった自分の分のパスタを、同じように黙々と食べつづける。
ため息混じりに窓の外を見て、慌てて目をそらしても遅かった。
見覚えのある顔が五人ほど、こちらを指差してなにやら興奮気味に話している。
奈留美も気づいたらしく顔を上げてわざとらしく彼女らに最近じゃ僕に向けたことのない極上の笑顔を作って会釈をしている。
再び外から悲鳴のようなものが聞こえてくる。大体何言ってるのかわかるけど。こりゃ来週学校に行ったら授業どころじゃないかもしれないな。
店が女子高校生が気楽にはいれるようなたたずまいではなかったのがせめてもの救いか、彼女たちは口々に何か言いながら手を振って去っていってくれる。
一番後ろにいた由紀ちゃんが、振り返ってぺこりとお辞儀をして、友達の後を追っていく。
なんだかその姿を見て、胸が痛んだ。
2−3 由紀子の場所
「ごーこん?」
梅雨に入っちゃって、火曜日と木曜日はいろいろ言い訳しながら屋上に行っていたのに、もう三回も連続で雨。昨日は晴れてたのに。そうでなくてももうすぐ期末が始まるし、そのあとは夏休みがきて、道彦君とは逢えなくなる。で、仕方なく教室でご飯を食べていると、クラスメイトとは言っても挨拶くらいしかしない子が、ねえねえ、と声をかけてきた。
「うん、そう。隣のクラスの私の友達がね、実工の子と知り合いで、カラオケとかして遊ばないかって。今度の日曜なんだけど、人数多い方が楽しいし、根岸さんたちも来ない?」
「私、カラオケとかは……ちょっと」
それに、実工……同じ市内にある男子校だけどあんまりいいうわさない学校なんだよね……
「私らも行っていいの?」
どうやって断ろうかと思っていたら、創子が目を輝かせながら聞き返している。ダメだ。創子ってこういうの好きだから。
「いいよ。ダメだったら声かけないってば。ね、明神さんも根岸さんもおいでよ。昼間遊ぶんだから、帰りとか遅くなったりしないからさ。三人いっしょならいいでしょう?」
京香がちらっと私を見る。きっと目に見えていやそうな顔してたんだと思うわ。嘆息してから、京香がおもむろに口を開こうとしたその時。
「行くっ! 一回行ってみたかったんだ。そう言うの。キッカもゆっこも行くよね?」
創子……
「わかった。参加するって言っとく。じゃあね」
私達の答えを聞かずに去っていく彼女を見送ったあと、私と京香は深くため息をつく。中学の頃の創子のあだ名。ソーコのソウは暴走のソウ。
「そぉーうぅーこぉー……あんたなんてコトしてくれたのよ?」
「え? なんで? 興味あるじゃん。一回行ってみても損はしないって、ね?」
こちらの思惑なんてつゆほども気づかずににこにこ笑う創子。ダメだ……
「どうする? ゆっこ、いやならいっしょに断ってあげるけど?」
「うん……」
そうして、って言おうとしたら、じたばたしながら創子が吠える。
「やだやだやだ! 一人でなんか行きたくないよう」
「なら、ソーコもやめれば?」
「それもやだ! 行ってみたいもん。ねえ、いっしょに行こうよ? 面白くなかったら帰ってきたらいいじゃん」
京香の瞳が『どうする?』って聞いてる。だだっこになった創子って、手がつけられないのよね。
しょうがないから頷く。京香もあきらめたみたいに首を縦に振った。
「わかった、行くから。私たちホントに楽しくなかったらソーコ置いて帰るからね」
「……そのときは、私も帰るもん」
さすがにこれ以上ごねると京香がキレそうだとわかったのだろう、創子が小さい声でつぶやいた。
「って言うより、目標はゆっこだろうけどね。あたしやソーコはオマケ」
「私?」
「だって須藤さんが最初に声かけたのゆっこじゃん」
「それは別に、私が顔上げて、目が合ったからでしょ?」
「鈍いねぇ……まあしょうがないか、ゆっこは天然だし」
「だって……どうして私なんか……ほら、腕……傷とか……」
「別にさ、あの子達知らないわけじゃん。だからって言わなくていいよ。そんなことは。わずらわしくなったらあたしに言いな、どうにでもしてあげるから」
制服が夏服に変わったとき、どうして長袖なの? って聞いてきた彼女たちに、軽い太陽アレルギーって咄嗟に嘘ついてくれたのは京香。だから日陰で体育見学してたのね、とか勝手に誤解してくれたので、そのまま。
「うん。ありがとう」
一応ひとつ年下だけど、京香は五人兄弟の一番上だからか、すごくしっかりしてる。私も長女だけど、今の杉田の家ではずっと末っ子扱いだったから、やっぱり京香みたいにはできない。逆に創子は一人っ子。いつでもどこでも元気いっぱいで、人との距離もあまり測らないで突っ込んでくる。そう言うところがすごくいいのだけれど。
それで、今日、七月頭の日曜日。
午後一時に駅前広場で女の子ばかりで待ち合わせをして、会場になるカラオケボックスに向かっていると。
「うわっあれあれっ!!」
「遠野先生じゃん」
目ざとく創子が、ちょっときれいな感じの喫茶店というか、レストランっていうか、そこの前を通ったとき、店の中にいた道彦君を発見。京香が固有名詞をだしたので、うつむきながら歩いてた私も顔を上げた。
顔を上げた瞬間、道彦君の前に座ってた女の人も顔を上げて、こっちに向かってにっこりと微笑んでくれる。
「ひゃーびっじーん」
「遠野先生にはもったいないね」
ぶんぶん手を振りながら、創子が笑っている。
ほんとにきれいな人。すごい大人の感じで、メリハリの効いた体のラインを強調した白いノースリーブ、胸元が大きく開いてて、ひざ上ミニのワンピース。黒くてさらさらのストレートの髪。
やっぱり男の人ってああいう女の人が好きなのかなぁ
「入る? どうする? 聞いてみる?」
「ダメだよ、時間ないし、こういう店ってコーヒー一杯でも絶対高いよ。ほら、早く行かないと待ち合わせ遅れる」
もうわくわくしてるのを隠さずに創子が行こうとするのを、須藤さんが止める。
「ちぇーじゃあ今度の授業で聞こうっと」
残念そうに、それでも合コンの方が魅力的だったのか創子も歩き出す。
振りかえると、複雑そうな顔をした道彦君と目が合ってしまった。
そのままそらすのも、なんだかいやな感じになりそうで、一度頭を下げてから、私もみんなに続いて歩く。
夏に、外に出るのはあまり好きじゃない。
今日集まってる子達も、ほとんどが丈の短いTシャツとか、腕や肩がでたノースリーブだったり、キャミソールだったり。須藤さんなんか、すごいミニスカート。
逆に、私はいつものように、長袖のシャツと、ジーンズ。
腕が剥き出しになる半そでの服は、Tシャツはもちろん、普通のシャツも持ってない。かなり目立たなくなってきたけど、おへその横から縦一文字に、腎臓を摘出したときの手術の痕があるから、ふとした拍子におなかが見えるような服は着たくもないし、足も、太ももの……上のほうとはいえ、内と外に二本ずつ、骨を固定するためのボルトや人工骨を入れたときの痕がある。二本あるのは、中学のときからだの成長に合わせて再手術をしたから。もしかしたらもう一回くらい手術をしなくちゃならないかもしれない。そしたらまた、痕が増える。
覗かれたりしない限り見えないところだけど、スカートには未だに抵抗があって、私服では膝丈より短いのは買わない。制服のときは、最近はしたにスパッツはいてみたり。
みんながおしゃれして、露出の高いきれいな服を着てあるく夏は、あまり外に出たくない。
始まる前からそんな調子だったから、当然全然面白くもなく。もともと杉田の家がテレビをあまり見ないから、私も芸能関係にはすごく疎くてよっぽど有名じゃない限り新しい歌とか全然知らないし。
一時間もしないうちに、閉鎖的なカラオケボックスにいることが苦痛になってくる。
歌って、って回ってくる本やマイクを、そのまま隣にいる創子に渡してその場をしのぐ。
男女合わせて十五人くらい。もちろん室内は定員オーバーで、硬いソファにぎゅうぎゅうに座っている。私の両隣は、京香と創子。
「ごめん、私ちょっとお手洗い行ってくる」
「なにー!? 聞こえないー」
「お、て、あ、ら、い」
「はいはい」
入り口側にいる創子の前を通って、外に出る。廊下にもいろんな部屋から漏れてくる音が、あふれていて、トイレの個室に入ってやっとほっとする。
はー……気分悪いからって帰っちゃおうかしら。でも創子に悪いかな。
「ゆっこー大丈夫?」
外から、京香の声。
「うん。平気。ちょっと酸素不足みたい」
「そう? ココも空気よくないけど、あそこよりかましね。ホントに、バカばっかりじゃない。今日のメンバー」
………相変わらず口悪いなぁ
実工は、うちの女子高と、まぁそんなにレベルは変わらないくらい低い。京香は、どうしてうちなんかに来たんだろうって位、頭はいい。本人に聞いたら、うちは成績順だけど希望者一学年一人限り、学費が免除になる制度があるんだって。もちろん京香は一番の成績で入学したから、それを受けている。それなら、確かに公立校に行くより学費かからないもの。
確かにちょっと、今回集まった人たちは……いろんな意味でレベルが低いかも。須藤さんの友達だという隣のクラスの三田さんの彼氏の友達らしいけど。
「ありがとう、ごめんね、心配かけて」
「いいよ。あたしもトイレ行きたかったし。ちょっと待っててくれる?」
「うん」
「ゆっこ、今日何時くらいまでに帰らなきゃならないの?」
「今日は少しくらいなら遅くなってもかまわないんだけど、ここって五時までだったよね? それ終わったら帰ろうかと思ってるの。キッカはどうする?」
「私もそうする。ソーコが次も行きたいって言ったらほっとこう」
「そうね、私も付き合えないわ」
「そうそう、ゆっこ、いやならちゃんといやって言わなくちゃだめだよ。なんかこう、ゆっこって流されやすいって言うか、人のことばっかり考えてるって言うか」
手を洗って、前髪をさわりながら京香がそう言う。
そうかしら? わりと言いたいことは言ってるつもりなんだけどな。
部屋に行くと、なんだかものすごく盛りあがってる音が聞こえる。そっとドアを開けたら、ぐいと手を引かれて、あっという間に京香と引き離されて空いているところに座らされる。
「えっと、あの?」
奥側に、知らない男の子。入口側をふさぐようにしているのは、そうだ、三田さんの彼氏。どうしてここにいるの?
薄ぐらい室内を見まわす。当の彼女は、他の男子と体を摺り寄せるようにしてくっつきながら楽しそうに喋っている。こっちのことなんて、全然気付いてない。
「まーまーまーまー」
「ナニ飲む? 今チューハイとかフィズとか頼んであるけどそっちがいい?」
「いえ、私、ウーロン茶でいいですから」
「そんなカタいこといわないでさーだいじょうぶ、そんなキツイ酒じゃないしさ」
言いながら、べたべたとくっついてきて、体を触られる不快感に鳥肌が立つ。
「ほんとにいいです。すいません、離して下さい」
肩を抱くように回される腕。ひざにかけられる手。
集まってすぐ、三田さんは彼と付き合ってるって言ってた。かっこいいでしょうって言いながらあなた達とは違うのよって顔をして、見せ付けるようにべたべたとくっついてた。それなのにその彼氏がどうして私の隣で、こんな風にしてるの?
拒否すれば拒否するほど、密着してくるからだ。
「あのっ……」
「悪いけど帰る」
私が帰ると言おうとした時、さっと立ってそう言ったのはものすごく怒った顔をした京香。
「由紀子、帰ろう」
「あ、うん」
「えー帰っちゃうの? 二人とも?」
多分きゃあきゃあ言いながら楽しんでいたのだろう創子が、立ちあがった私達を見上げる。
「居たいんならソーコだけここにいなよ。あたしらは帰るから。行こう、由紀子」
「え、やだ、私も帰る」
騒がしく流れる音楽が、一瞬聞こえなくなるくらい京香の怒りはすごかった。慌てて創子も立ちあがる。
「須藤さん、もう金輪際こういうの、誘わないでくれる?」
「なっ……来たいって言ったのそっちじゃない」
「来たいって言ったのはこの子だけ。今度はこの子だけ誘ってよ。それじゃあ」
呆然としている男の子達を一瞥して、京香が私の手を引いて部屋を出る。待ってよと言いながら、創子がついてきた。
「ったく、ソーコのバカ! なんでへらへら笑ってんのよ」
「そんな……キッカ、なんでそんなに怒ってるのよ?」
「あんなべたべたべたべた触られて、腹が立たないわけないでしょう!?」
「えー私、そんなことされてないもん」
「あーそうでしょうよ。ゆっこは? 大丈夫だった? あ、ごめん」
私の手首をつかんだままのきつく握っていた手を、慌てて離す京香。
「んー気持ち悪かった」
「うわー……ゆっこも触られてたの?」
払ってどうなるわけじゃないけど、触られてたところをぱんぱんと埃を払うように手で叩く。
「私は服も袖あったし……直に触られたりとかはなかったけど」
「触られたわよ! べたべた。胸まで触られたっ!! ただで触ってんじゃないわよ!?」
そうよね。私達三人の中で、一番……ううん、あそこに居た女の子の中では京香が一番スタイルがいい。私はやせ過ぎだし、創子はどっちかって言うとお子様体型って言うか。うーん、でも背は私のほうが高いんだけど多分創子の方が胸はあるなぁ……
「ソーコ、今後こういうのに行きたいときは一人で行ってね」
「えー一人でなんて行けないよ。ゆっこは?」
「私もでたくないな」
「楽しくなかった?」
「ぜんっぜん!! あたし達がトイレ行ってる間に何があったの?」
「別にナニも……お酒が来たくらいで」
「ナニもあるじゃない! 酒なんて飲んでて小石原にでもばれてごらん? 即刻停学だよ」
怖いです。京香……
「まあ、ね、ほら、何ともなかったんだし、京香もそんなに怒らないで、ソーコも、もうこういうの、行かない方がいいよ、ね?」
「だーもう! あんたも!! ダメでしょ? もっと怒らなきゃ!!」
「うん。でもほら、キッカが怒ってくれたし。いっつもキッカがこういう役回りでごめんね」
キッカが怒っちゃうと、私の怒りが治まっちゃうのよね……
で、キッカはっていうと、それが気に入らなくてまた怒り出すの。電車に乗って、最寄駅について、家に向かう道でもずーっと怒ってたもの。
「じゃあ、明日学校でね」
家の前で別れるときにやっといくらか落ち着いたらしい京香がそう言う。
「うん。バイバイ」
家の順番が、駅から京香の家、少し離れて創子の家でその三軒隣が私の住んでる杉田家。
「ごめんね、ゆっこ」
並んで歩きながら、創子が元気なさそうに謝ってくる。
「いいってば、もう。ほら、このくらいで済んだんだから、ね? もうこう言うの出ないほうがいいってわかったんだから、全然無駄だったわけでもないでしょう?」
いつも元気が有り余っている創子も、京香が久しぶりにキレまくったせいだろう、ほんとにしゅんとしちゃっている。
「ゆっこは、強いよね。やさしいし」
「そう?」
「うん。ありがとう。ちょっと元気でた」
「よかった。ソーコが静かだと落ち着かないもの」
「ひどーい。私そんなに騒がしい?」
「そうじゃなくてね、ソーコはソーコらしいほうがいいってこと」
釈然としない顔をしながらも、納得しようとしているのか、創子が黙りこむ。
離れているといっても、高々数百メートルの距離だから、すぐに創子の家の前に着き、さっきと同じようにバイバイと手を振ってわかれる。
「ただいまー」
「おかえり。早かったのねぇ」
「え? うーん、ちょっと気分悪くなって、帰ってきたの」
正直に男の子にべたべた触られて気持ち悪くて帰ってきたとは言えないわよねぇ。そんなことしたら佐貴ちゃんだけじゃなくて、おじさんやおばさんも怒りまくるに決まってるもの。小学校の頃、傷のことや足が不自由なことで男の子達にからかわれて突き飛ばされて服を汚して帰って来た時なんか、誰にされたかしつこく聞かれて、しょうがないから答えたら、その子の家にホントに殴りこみに行ったのよ?
その後も学校で問題になって、私、全校生徒の前でからかった男の子達に謝られたの。アレはアレでちょっときつかったわ。
「頭痛いの? おなか大丈夫?」
「大丈夫。カラオケボックスだったから空気悪くて気分が悪くなっただけだったみたい。もう平気。着替えてから晩御飯作るの手伝うね」
うわー我ながらすらすらウソが出てくるわ……心配そうな美岬おばさんを見ると、ちょっと罪悪感。
「そう? 今晩は佐貴子たち来ないし、由紀ちゃんも外で食べてくるかなって思ってたから、簡単に済ませるつもりだったんだけど由紀ちゃんが帰ってきたならなにかしようね。食べたいものある?」
「うーん。冷凍庫に赤魚が中途半端に残ってたから、それの煮付けがいいな。最近美岬おばさんの魚料理食べてないし」
「じゃあそれにしようか」
いそいそと、美岬おばさんが台所に消えていく。
杉田の家の人たちは、本当にやさしい。
私のことを本当に大事にしてくれる人たち。
でも、私は、佐貴ちゃんたちみたいに、おばさんにしかられたことは、一度もない。
お互いにどこかで距離を測って、踏み込まないように、遠慮しながら暮らしているのだ。
それに気がついたのは、まだ最近。
やさしい分、やっぱりこの家の人たちは、私の家族ではないのだと気づいたのは、本当に最近。
それまでは、全然そんなこと気にせずに暮らしていたから。
ここは、佐貴ちゃんの実家だけど、私が将来お嫁に行った後、私の家ではなくなる。
でも私は……この家を、出なくちゃいけないのだ。ううん。もともとこの家の人間じゃないのだから、元に戻るだけ。元に戻るって言っても、その元が、どこにあるのか私にはわからないけれど。
だからせめて、ここにいる間だけでも迷惑をかけないように、いい子でいなくちゃいけない。心配をかけないように、笑ってなくちゃいけない。
創子は、私が強くてやさしいというけれどそれは、ちょっと違うんじゃないかと、やっぱり最近になって思う。
どうして私の家族だけ早くにいなくなってしまったんだろう、とか、どうして私だけ、こんな傷を負いながら生きてるんだろうとか、考えなかったといえばウソになる。
でも私がそのことを理由にして、何か悪いことをしたりするっていうのは、今までやさしくしてくれていたこの家の人たちや友達に対して、すごく失礼なことだと思う。
私が何か人の口の端にのぼるようなことをすれば、真っ先に言われるだろう『あの子は親がいないから』って。
そんなことをしたら絶対にだめだ。
私は私のために、死んだ両親のために、絶対、そんなことはしない。
絶対に。
2−4 道彦の場所
「で、どの子が『ユキコ』ちゃん?」
「は?」
どのくらい窓の外を見ていただろう。不意に奈留美にそう問われて、やっと意識がここに戻ってくる。
「最後に振りかえった子でしょ?」
「そうだけど、良くわかったね」
「別に、そうかなって思っただけ」
先ほどの愛想笑いはどこへやら、面白くなさそうに残りのパスタをフォークでつつきながら、奈留美が頬杖をつく。
「でも参ったな」
「折角女子高生にもてようと思ってたのに彼女がいるってバレて?」
いちいち本当に、刺々しい。
「違うって。彼女がいることなんか最初の授業のときしゃべらされたよ。そんなことより来週の授業、期末が近いから復習するつもりだったけど、こりゃ何もできないかも」
「なんだかんだいいながら、立派に先生してるじゃない。そのまま落ち着いたら?」
「やめてくれよ。給料は安いし、研究はできないし」
「そう? 私にはあなたの天職に見えるけど。あ……」
不毛な言い合いに終止符を打ったのは、机の上のポケットベル。お医者様の必需品。
「またあのじーさん死にかけてるし。何回あっちがわ覗いたら逝く気になってくれるのかしら。ごめん、病院もどるわ。ごちそうさま」
画面に出たメッセージに、奈留美が物騒なことを言う。そのまま席を立ち振り向かずに出ていって、タクシーに乗りこむのを僕も何も言わずに見送る。
今日は一日休みだから、と言われて、僕も何も予定をいれていない。でもま、研究室のほうにでも顔を出してから、帰って寝るか。
三回に二回は途中で奈留美が病院から呼び出しを食らうのだ。どうせこうなるんじゃないかとは思っていたから、大した怒りもわいてこない。
最近、昔のことばかり思い出す。
はじめて逢った時のことや、同棲を始めた頃のこと。
人は人生の終わりに、一生を走馬灯のように思い出す、って言うけれど、恋愛が終わるときも、そうなのかもしれない。
あの時は良かった、あの頃はこうだった。
比べれば比べるほど、今との差が際立って虚しくなるのにそうしないといられない。
今だって、付き合い始めた頃は、ポケベルが鳴ったら僕が不機嫌になって、奈留美が謝りながら出ていった。何度も振り返って、時には出ていこうとするのを無理にひきとめて、何度もキスをして。
そう言えば、お互いに触れるということをいつからしてないっけ?
そんなことしなくても、つながっているといえるほど、僕達の間にあるものは強くない。
けれど、そんなことしないことにさえ、慣れてしまっている。
そろそろ本当に、ちゃんとしなくちゃいけないだろうな。
まだ明けない梅雨空が、どんよりと重たくのしかかっている。
そんな空を見上げて、漠然と、彼女との別れを考えていた。
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