ケース3−5 華菜の場合
ふわりと、まるでそれが当然のことのように腰にまわされた腕。全然力がこもってないのに、その腕が振りほどけない。
左側ばかり気にして勢いよく押さえに行った右側が、そちらよりも服が脱げるのが分かる。
なんとかとどまっていた肩紐が、払われる。
心臓が、ばくばくする。
駿兄の吐息が、肩にかかるのと同時に、暖かくて柔らかい、唇が触れる。
心臓が、どかん、といつもよりものすごい大量の血液を送り出す。
首の付け根にとどまるくちびる。耳にかかる駿兄の前髪。
その前を、冷たい指が肩紐と腕に通ったままの服を払って、駿兄の両手が私の体に絡みつく。
後ろから、抱きしめられていた時間は、きっとほんの一瞬。
体が離れて、駿兄が静かに出て行く。
ぱたん、とお風呂のドアが閉まって、続いて脱衣所の戸が閉まる音が聞こえた。
誰もいなくなったお風呂で、結構な間そのまま呆然として、寒くなったので重くて脱ぎぬくくなった服をのろのろと脱いで、ずぶずぶ温くなったお湯に頭までつかる。
息をとめて、限界まで止めて。
お湯の中で自分の心臓の音を確かめる。いつもよりすごくどきどきが早くて、自分のじゃないみたい。
さっきのことを思い出したら、どうしようもないくらい苦しくて、水の中から顔を上げる。
駿兄の唇が触れた肩にさわる。そこだけ私の体じゃないみたいに熱くて別のものみたい。
どうしよう。
私、いやじゃなかった。
怖かったのに、嫌じゃなかった。
そのまま駿兄がいなくなって、ほっとしたのと同時になんだか寂しい感じが肩から広がってきたの。
駿兄の妹じゃなくて、恋人になりたかった。ずっと。私しかいらないって言ってくれて嬉しかった。駿兄しかいらないって言えて嬉しかった。でも、その続きが怖くて逃げ出そうとしたのに。
どうしてこんなにちぐはぐなんだろう。
全然わからない。
迷路の中にいるみたい。
右手を壁について歩いても、決してゴールの見えない迷路。刻一刻と形を変えていく迷路。
気持ちと体が別のものになるような感覚。
今までの『好き』と、今の『好き』と、これからの『好き』と言う気持ち。変わらないのに変わっていく気持ち。
駿兄はどうなんだろう? 今まで通り? ずっと表に出さなかっただけで今日みたいな駿兄はずっと駿兄の中にいたのだろうか? それとも、私が今日妙なこと言ったせい?
駿兄が……って考えて、ぶるぶるっと頭を振って、バスダブから体を引き上げる。そんなにゆっくりしてられない。だって駿兄もびしょびしょになってたもん。早くお風呂入らないと、駿兄が風邪ひいちゃうよ。
ばたばたと洗い場で頭と体を洗って、お風呂から出ると急いで髪を乾かした。ぬらした服を少し絞って、どうしようかなって思ったけどとりあえず洗濯機に入れて、着替えて深呼吸して、そーっと、リビングを覗きこんだ。
「もう上がったのか? ちゃんと温まった? 髪も洗った?」
何か考えてたんだろうか、駿兄はゆっくりとソファからたちあがって、いつもと変わらないことを言う。
でも、何て言ったらいいのか分からなくて私はただ頷いた。
大丈夫、いつもと変わらない、そう思っても、なんか、腰がひける感じ。そういうのがまたギクシャクさせるもとなんだけど、判っててもどうにもならない……
「ご飯はジャーの中にあるし、おかずはレンジで温めなおして。味噌汁も」
お母さんが作っておいてくれた晩御飯。二人分、どっちも食べてないみたいだった。
「じゃあ、俺は風呂入ってくるから……ご飯食べたら自分の家に帰っていいよ」
「駿兄、ご飯食べたの?」
リビングを出て行こうとした駿兄に、やっとそれだけ聞けたけど、まるで自分の声じゃないみたいに、緊張してて、かすれてた。
「まだ。風呂から上がったら食うから、華菜は先に食べてて」
何か言おうとしたのに、言葉にならなかった。するりと、駿兄の姿がリビングからなくなってしまう。
……ひとりでご飯を食べるのって、初めてだ。いつもおかあさんか、駿兄がいた。
ご飯をよそって、レンジでチンして、一人でいただきますをして……
全然おいしくなかった。
ご飯は大好きな生姜と鶏肉の炊き込みご飯だったし、お味噌汁はいつもの玉ねぎとタマゴ。おかずも全部、好きなものばっかり。
なのに全然味がわからないの。
悲しくなって、お箸が止まった。
昨日までの私達なら、きっと一緒に食べてたのに。
こんなのは嫌。
昨日まではずっと、変わりたかったけど。
こんな風になりたかったわけじゃない。
立ちあがって、リビングを飛び出す。ノックもしないで脱衣所のドアを開けると、風呂上りの上半身裸で頭を拭いていた駿兄がギョッとした顔で振りかえった。
「か、華菜?」
あたって砕けてやる。
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