1 授業


 時は六月も半ばを過ぎた頃。
 梅雨に入る前の空は、春と夏を合わせたように中途半端な高さで緩やかに雲を泳がせている。
 翌日から三泊四日の修学旅行と言う日の、六時限目。
 校内は浮き足立っていた。
 修学旅行に行く二年だけではなく、他の学年も明日は遠足だ。少なくとも、二年A組の外は、浮かれた空気が漂っていた。
 ごくり……と、誰かが咽を鳴らした。
 その、二年A組の中には、きりきりと胃が痛くなるような、凍りついたような空気が固まっている。
 クラスメイトはみな、夏清を見ている。
 諸悪の根源は、いつもの人を小ばかにしたような笑いを浮かべて、教壇側の扉に背を預けている。
 いつもよりペースの速い授業は、十分以上の余裕を残して教科書の問題が終わり、そのまま授業が終わるのだろうと誰もが思ったその時。
 黒板にえらくひねくれた問題が、端正な字で綴られた。
 夏清が、ため息をついた。
 その問題を書いたあと、井名里が挑戦的に笑って、誰かがこれを解けたら今すぐでも帰っていいぞと、のたまわった。
 クラスメイトの視線が痛い。
 ノートには、公式が展開されて、終了のチャイムが鳴る前にきれいに解かれている。
 がたり、と夏清が立ちあがる。
 すでに、SHRの時間も終えている。一年の時学年主席だった夏清は、当然A組になった。二年生からAからGまでの七クラスの前半を理数系、後半を文系にわける。ほぼ毎年、三:四で理文わかれるのだが、今年は誰のおかげか理数系はAとBクラスのみ、あとは文系だ。理数に当たるこのクラスを受け持つのは当然井名里だ。よってSHRなどをそのまま繋げても他の先生から文句は出ない。
 これだけ待っても誰もなにもしないのだ。確かに、習っていないことがわかるわけがない。腐っても数学の方が得意、と言う生徒が集まっているのだが。
 かつかつとチョークの音が教室に響く。黒板に井名里に負けない几帳面な字が躍る。
 全部で二十五行をかけて夏清が問題を解き終えた。
「正解。じゃ、明日は遅れるなよ」
「待ってください」
 そのまま出て行こうとした井名里を夏清が呼びとめる。
「この問題の説明は?」
 教壇の上の夏清と降りている井名里の視線は同じ位になる。睨むようにしながらあきれてそう言う。
「それは渡辺の方が得意だろ?」
 それで給料もらってるんだから仕事をしろと言いたかったが、さすがにここで、そんな馴れ馴れしいことは言えない。
 とっとと出て行ってしまう井名里を見送る夏清。
 一緒に暮らしだしても、学校の中では、夏清と井名里は天敵のような関係だった。
 今思い出しても腹立たしい。
 あの日、初めての夜。翌日の一時限目の数学。
 どきどきしながら井名里を待っていた夏清に、いやいやながら待っていたその他大勢のクラスメイトを含めた全員に、小テストを実施した。
 一年生三学期の期末試験も終わって、たるんだ脳みそを直撃する衝撃的事件である。
 しかも問題は一年間の復習から応用まで、小テストと言うにはかわいそうなくらい充実した内容だった。
 当然夏清も、予習も復習もしていなかったわけで。
 結果は惨敗だった。生れてから初めて、数学で八十点を下回った。
 そう、あの時井名里が早く学校に行ってまで作っていたのはその小テストだったのだ。しかも、なんと夏清の顔をみてテストをすることを思いついたのだという。
 絶対同居をやめてやろうと思ったのだが、風俗のバイトを続けるつもりも、続けられるはずもなく、泣く泣く夏清はその週の日曜に拉致されるように井名里のマンションの一室に引っ越した。
 あの敗北感。忘れてなるものか。
 いつか仕返しをしてやるぞ、と心に誓ったのは言うまでもない。
 まだ、その機会は来ていないのだが……
 嘆息して、指についたチョークを払い落とす。井名里がいなくなるのを待っていたかのような早さで、夏清はクラスメイトに囲まれた。
 説明を、しなければならない。
 
 
 クラスメイトに説明をしながら、夏清は井名里の行動に本当に呆れる。
 大体、この問題の大元は、昨夜……いや、すでに今日だ。午前二時を回っていた……夏清がどうしてもわからなくて聞きに行ったものではないか。その応用だ。井名里はちゃんと、夏清に解き方を教えてくれた。
 あの調子で、仕事もしてくれたらいいのに……と夏清はまたこっそりため息をついた。






 ←    → 2 家


Copyright © 2001 NOV  Sachi-Kamuro All rights reserved.
このページに含まれる文章および画像の無断転載・無断使用を固く禁じます
画面の幅600以上推奨