6 夢
食べたものを吐いて意識不明になった少女を搬送するために駆けつけた救急隊員は、同時になぜか右手を血まみれにした男性教諭も乗せて、宿から徒歩でも三分くらいの救急病院に運び込んだ。
結果は、夏清は過労とストレスによる急性胃炎。井名里は手の甲だったこともあり、傷は浅くても思い切り裂けていたので、三針縫った。
「井名里先生……救急車来てたから良かったようなものの……」
「すいません、気が動転してたんですよ。洗おうと思って、そのまま突っ込んじゃって。宿のほうには個人的に弁償しますって伝えてもらえますか?」
あきれたように包帯の巻かれた井名里の手を見た塩野に、しれっと井名里が嘘をつく。
「弁償はいいみたいですよ。私もそう言ったんですけど、宿の人がなんかおびえてて。井名里先生が血まみれで立ってたら、怖いですよ。かなり。でもスーツはダメみたいです。思いきり血がついちゃってて。胃液も染みになりますし…」
「かまいませんよ。安物ですから」
井名里が鏡を割った音が派手に響いたのは、ちょうど夏清のところに人が集まりだしたその時だった。
学生がふざけて割ったと思ったのだろう宿の男性がトラブルを待っていたかのように嬉々としてやってきた。恐らく高圧的に怒鳴り散らして、弁償を求めるつもりだったのだろうが、近づいたら三枚におろされかねないような据わった目で、手から血を盛大に流している井名里に、堂々と『滑ってこけた』と言われて、何故か申し訳ありませんでしたと謝っていた。
「それよりもー……怖かったですよ……」
塩野がため息をついてがっくりうなだれる。
「さっき病院に来る前に渡辺さんの保護者の北條さんに電話入れたんですよ……吐いて倒れたって言ったらものすごい剣幕で怒鳴られて、もう担任出せって怖いのなんの……井名里先生も怪我して病院に行かれましたって言ったら、携帯電話持ってるだろうから番号教えろって……」
「で?」
「すいません……」
「教えちゃったんですか?」
すいませんすいませんと謝りながら、塩野が手を合わせている。
「だって、言わないと私、殺されそうだったんです」
今まで何度も教えろと言われつづけて避けてきたのだ。もちろん夏清にも絶対に教えるなと言っていた。教えたら最後、絶対無理難題吹っかけられるか便利に使われる。
泣きそうになっている塩野に井名里はさすがになにも言えなかった。電話に出たのはおそらく北條ではなく実冴だろう。あの女に敵う人間は、北條以外にいない。今は病院内なので電源を切っているが、きっといらいらしながら電話をかけてきているだろう。ほとぼりが冷めるまで電源を入れないでおこうと井名里はため息をついた。
「でも、ちょっと安心もしたんですよ。渡辺さん、この春また保護者が変わったじゃないですか? そしたらぴたっと保健室に来なくなったんで、ああ、生活安定したんだなぁって。北條さん、本当に渡辺さんのこと心配してくれてるみたいで」
「え? か……渡辺、保健室通ってたんですか?」
「あれ? 井名里先生……知らなかったですか……?」
知らないもなにも、夏清が保健室に通っていたなんて全く気付かなかった。
「いつも来るのは昼休みですから。他のサボり癖のある子達と違って、五時限の予鈴がなったら教室に帰ってましたし。四時限が終わったらお弁当もって保健室に来て、食べて寝て帰る。お弁当って言っても、コンビニのを詰めなおしてる感じだったんで聞いたら晩御飯に食べ切れないから半分持ってきてたらしいんですね。そんなんじゃ栄養片よるよっていったら、じゃらじゃらサプリメント持ってるんですよ。でも家政科の先生に聞いても、渡辺さん料理は上手らしいんですよ。手際もよくて」
当たり前だ。バイトのない日はいつも夏清が作っているのを食べているのだから知っている。少なくとも下手ではない。多分上達している。かなりのハイペースで。
「だから聞いたんですよ。なんで料理しないの、ってそしたら彼女、何て答えたと思います?」
わからなくて、井名里が黙ったままでいると、塩野が続ける。
「一人だと、おいしくないんですって。どんなに上手にできても、できたときは嬉しくても、食べてるとどんどん味気なくなるって。だからコンビニのお弁当でもなんでもよくなったって……あっあああああっ!! 一人暮しだって誰にも言わないって約束したのにっ」
一人で頭を抱えて塩野が苦悩している。
「今は違うみたいなんですよ? ご飯もちゃんと食べてるみたいだし、去年に比べたらすごく顔色も良くなってますから。本人に確認したわけではないんですけど」
自分に言い聞かせようとするように頷く身振りを交えて塩野が言い訳をする。
「それに、うん。渡辺さん、ものすごい頭痛もちだったんですよ。いつも三つくらい頭痛薬持ってて、それで効かなかったら保健室にあるものの方がよく効くって知ってるもんだから、勝手に飲んじゃうんですよ……薬に頼りすぎるのはよくないから、そう言っても聞かなくて……倒れる前聞いたんですけど、わりと平気そうだったんで……どうしてこんな急に……」
心配そうに視線を泳がせる塩野に、井名里も申し訳なくなる。喋り続けないとどんどん不安になるのだろう、塩野が独り言のように、井名里に聞かせるのが目的ではない様子で言葉を続ける。
「あー もうちょっと気をつけてたら……タダでさえ細っこくてか弱そうなのに……やっぱり色々気を使ってたんでしょうか? 渡辺さんってどっちかって言うと我が強くないっていうか、貧乏籤を引くタイプって言うか……『自分が少々しんどくても一人我慢したら大丈夫かな』って考えてるんですよね。人との距離がうまく掴めない子って言うか……
ほら、井名里先生が中高生の時もいませんでした? 居ても居なくてもわからない子。必死でそう言うのにならないように優等生をしているって言うか……あー うまく言えない……」
塩野が頭を抱える。
「んー……自分を殺してでも人に合わせる……それも無意識で。そう言うストレスが頭痛で出る……今日のもストレス性の胃炎だし……うまくストレスを抜く方法、知らないのかもしれない……でもそんなの、方法教えてもモトがそのままじゃしょうがないんですよねぇ」
落ちつかなく喋りつづける塩野だが、さすがに保健医をやっているだけのことはある。色々見ている。
「すごいですね、塩野先生」
「は?」
「ちゃんと生徒を見てるんですねぇ……俺なんかなんにも知りませんでしたよ」
違う。知ろうとしなかったのだ。夏清が言いたくないのなら、聞かないほうがいいだろうと避けていた。思い出せば、夏清がなにか言いたそうにして、やめていたのを何度か見た気がする。その時、どうした? と一言聞いていたら。
キスをすれば、応えてくれた。
からかったら面白いくらい驚いたり怒ったり笑ったり。
抱きしめれば、細い腕が同じように抱きしめてきた。べったりとくっついて、腕の中に柔らかさとぬくもりがあれば、なにもいらなかった。
いっしょに暮らせば、必ず起こるはずの摩擦。
それが全くなかった。
少なくとも、井名里には。
どうして気付かなかったのだろう?
包帯の巻かれた手をじっと見る。
「本当に、バカですねぇ」
暗い雑木林の中。
知っている。ここは、祖母と住んでいた家の近くにある山の中だ。
近所の男の子達が秘密基地を作っていた場所。
祖母に買ってもらった新しい自転車を、彼らに取られて、乗って行かれたのだ。それを追いかけて行って、逆に追われて右も左も分からない山の中を、小さな夏清は泣きそうになりながら走って逃げた。
躓いて転んで、そのまま斜面を滑落した。
たった二メートルほどの崖だったけれど、落ちて泣き出した夏清に驚いた少年たちは、夏清を置いて帰ってしまった。
遅くなっても帰ってこない夏清を心配した祖母が、乗り捨てられた自転車を見つけて、近所の消防団が山狩りに出てくれて、朝まで放置されることはなかったけれど、真っ暗になっていく山の中で、ものすごく心細かった。
あの時は助けてもらったのに、誰も助けに来てくれない。
助けが来ない理由は知っている。これは夢だから。夏清がたった一人で見ている夢だから。
すぐに場所が変わる。
まだ新しい建物の匂い。絨毯の床。きれいな黒板。ロッカーからはみ出した置きっぱなしの教科書。ブルーグレーの絨毯を透明なオレンジに染める秋の色の夕日。
誰もいない二年一組の教室。
夏清たちが二年の夏休み明けに校舎が新しくなった。
中学の修学旅行も、京都と奈良だった。二泊三日だったけれど。
夏清は、行かなかった。
行きたくもなかった。
班を分けるとき、夏清が行かないことを知って、あからさまにほっとした顔をしたクラスメイトたち。根拠のない濡れ衣は、あっさりととけたものの、みんなが夏清のことを扱いかねていることは、いつも人の印象を気にして生きている夏清には、痛いくらい良くわかった。
夏清のほかにも、修学旅行に参加しなかった同級生は何人かいて、一応出席日数に数えられるイベントのため、こうして誰も来ていない教室に、夏清は来ていた。
行かなかったことを後悔はしない。それよりも、遠い場所で、クラスメイトたちが、夏清のことなど忘れて、思い出しもせずに笑っているのだと思うと、そちらのほうがよっぽど悔しかった。
じっと、長く伸びた自分の影を見つめていた。もうこんなところに居たくないのに。惨めな自分を見たくないのに。
灰色の影がどんどん大きく、濃くなっていく。その影に飲み込まれた瞬間、夏清はまた別の場所にいた。
叔父の家。
まるで人事のように、夏清は逃げている夏清を上空から見ているだけだ。
時々、視界が逃げる夏清に変わる。迫ってくる荒い息。足音。掴まれる腕。振りほどけない。圧し掛かられて、思い出したくもない卑猥な言葉を浴びせられる。
いつもいつも、見る夢。
誰か助けてと叫んでも、誰も助けに来てくれない夢。
悪夢は、終わるまで終わらない。
いつもきっちりと、最後まで。
夢は痛くないと言うのはウソだと、夏清は知っている。夢だって痛い。苦しい。
殴られた痛みを覚えているから。
縛られた痛みを覚えているから。
いっそ記憶喪失にでもなって、何もかも忘れられたらいいのにと、何度思ったことだろう。
それでも、夢の中で夏清は助けを求める。
それでも、夢を見ている夏清は、夏清を助けてと叫ぶ。
過去が変わらないように、この夢の未来は変わらない。
夢の中で助けを呼ぶ夏清を、助けることができない夏清が泣きながら見ている。
服が裂ける音が聞こえて、傍観者の夏清が目を閉じて耳をふさぐ。
祖母を呼んでいた。
もういないのに、わかっているのに、夢の中でいつも。
でも今は、違う人の名前を呼びたかった。頭の中に浮かぶのはたった一人。でも呼べなかった。唇が、動かない。
そうだ。だって自分から大嫌いなんて言ったのに、都合のいいときだけ呼ぶなんて、できない。
襲われている夏清が、悲鳴をあげる。
目を閉じても、耳をふさいでも、襲われているのは夏清自身だ。全部覚えている。
耐えられなくて、泣きながら、夏清が震える唇を動かす。
「…………っ!」
塩野が宿に帰ったあと、井名里はどうせ傷もあるので眠れないからと病院に残った。屋上でバカほど入った伝言を聞き、ついでに北條の家に電話をかける。真っ先に出たのは誰あろう実冴で、開口一番バカバカどうせあんたのせいでしょう!? と怒鳴られた。
今回はさすがに、井名里には嘘も言い訳もできなかった。
殊勝にハイハイと一通り怒鳴られ尽くし、電話が北條に代わった。めったなことで怒らない人だが、瞬間冷凍されそうなくらい静かな口調で帰ったら絶対に夏清を連れてくるように言われ、こちらは本気で怖そうなので、まじめにはいと答えて電話を切った。
正統派の優等生の夏清を、北條は一目で気に入ったらしい。なにかと面倒を見てくれている。二人が一緒に暮らすという現状を一番心配してくれているのは、北條だろう。
北條は、頭ごなしに反対する実冴を制して普通に暮らすのならと許してくれた。それは、夏清が望んだからだったのかもしれない。こんな事態を知れば、恐らく北條も、本気で夏清を自分の元に置こうとするだろう。
バイトから帰ってくる夏清はいつも、楽しそうに北條や実冴や、その子供たちの話をする。井名里が内心嫉妬してしまいそうなくらい、楽しそうに。もうバイトに行くなと、何度言いかけて飲み込んだだろう?
こんなことを頼めるのは、北條以外にいなかった。北條なら、夏清を受け入れてくれるだろうと自分が頼んだのに、北條になつく夏清を引き止めたかった。他人であるのに、北條には迷惑をかけっぱなしだ。
つくづく自分の大人失格っぷりに井名里は久しぶりに、本当に、へこみそうだった。
へこんでいても仕方がないので、院内に戻ってそっと夏清の病室に入ると、歯軋りに似た低い唸り声が聞こえて、思わず近づいて夏清の顔を覗きこんだ。
形のいい額に、べったりと脂汗をかいて、眉間に深く二本、シワが刻まれている。とじられた長いまつげが、小刻みに動く。
名前を呼ぼうとした時、あえぐように、それまで歯を食いしばるように引き結ばれていた夏清の唇が開いて、震えながら動く。
ぎこちなくゆっくりと。けれど、確実に、夏清が声にならない声で呼んだのは。
あきら。
「夏清?」
優しい声が、冷たい世界にぱぁっと広がった。
澱んだ水の中みたいな息苦しい場所から、一瞬でなにもない清涼な、けれどとても暖かい場所へ引き上げられる感覚。
何もない、空色。体が、どんどん軽くなって。
目を開けると、知らない天井。
「……?」
瞬きで、生ぬるい涙が伝う感触。それよりも暖かい、手。
「先生?」
びっくりしたような顔で、夏清が井名里を見つめている。
「大丈夫……じゃないよな?」
「なん……で? 先生が、ここ、いるの?」
質問が重なった。
「悪い。寝てたけど、うなされてたから起こした。まだ寝てていい。もう外に出るから」
夏清の言葉を拒絶と受け取った井名里が頬をなでたあと体を離そうとするのを夏清が小さな声でいかないで、と止める。
「違う……の、びっくりしたの……あの夢、途中で終わったの……はじめてだったから」
「夢?」
井名里の腰のあたりのカッターを掴んでいる夏清の小さな手が、振動が伝わるほどがたがたと震えている。そっと手を取って、自分の手の中でなでながら、井名里が聞き返した。
「ちっちゃい時とか……中学の修学旅行、行けなかったこととか……あの時のこととか……つらかったこととか、怖いことばっかり……たくさん、でてきて、終わらなくて……いつも……でも、最近は全然見てなかったの。先生といたら、全然、見てなかったの」
言いながら、ぼろぼろ夏清が泣く。止まらない涙が伝う頬を井名里の手がなでる。夏清が目を閉じて、ほぅっと息をついて、言葉を続ける。
「怖くて、助けてほしかった。でも私、先生にひどいこと言った……から、呼べなくて……でも先生に、来てほしくて、自分が苦しい時だけ、頼ろうとして……名前、呼ぼうとしたけど……声、出なくて……なのに……先生が居たから」
思いつくように言葉にする。思いを伝えたいのに、どうして言葉はこんなにまどろっこしいのだろう。
「ひどいことしたのは、俺のほうだろう?」
夏清が首を横に振る。
「今、ここにいてくれるだけで、いい」
懸命に微笑もうとしている夏清を見ていると、井名里はどうしようもなく情けなくなる。無意識で無理をしようとする夏清に、自分はなにをすることができるんだろうか、と。
「先生、手……どうしたの? ケガ、したの?」
つないだ手の違和感に気付いて、夏清が問う。
「ん? 何でもない。大したもんじゃないよ。夏清のほうがつらいだろう? こんなもんの心配、しなくていいから」
夏清の痛みに比べたら。こんなもの、ケガのうちにもはいらない。
「だって、私のせいじゃないの?」
「そうやってなんでも自分のせいにするな。ちょっと切っただけだから」
ベッドの脇に座って、汗で張りついた前髪を払ってやる。冷たかった額に熱が戻っていて、井名里がほっとする。
程よく冷たい井名里の手が気持ちよかった。やさしく触れる指先が、心地よかった。
「ごめんなさい」
「?」
「ほんとはずっといっしょに居たいの。いっしょに居て、先生と暮らして、全然知らなかった先生が居て、みんな好きになったの。手も声も腕も胸も、笑った顔も意地悪なところも、みんな好き。どんどん好きが大きくなったの。私の中の先生が、どんどん、大きくなったの」
一度言葉を切って、深呼吸するように息を吸う。
「でも、先生は変わらなくて、ずっとおんなじで……だんだんわからなくなって……先生が私のことどう思ってるかって考えたら、怖くて。私だけどうしてこんなに先生のこと好きなんだろうって。私だけどうしてこんなに先生に頼っちゃうんだろうって……今だって、先生引きとめて……ケガ、してるのに、私だけやさしくしてもらってる」
「それは……」
違うだろう、と言おうとした井名里の言葉をさえぎって、夏清が言う。
「先生がそばに居てくれるだけで、幸せな気持ちになれるの。優しくしてもらえたら、他になんにもいらないって思うのに、すぐにそれだけじゃ足らなくなるの」
好きになればなるほど、心が貪欲になっていく。それは、井名里にとっても同じことが言える。見捨てられてもしょうがないようなことをしたのに、まだ自分のことを求めてくれる夏清が、どうしようもなくいとおしかった。
「先生、だって、一回も、スキとか、いってくれなくて、どんどん、不安になったの」
言われて気付く。そう言えば、はっきり言葉にした事はないかもしれない。
夏清は『私のこと好き?』と無邪気に聞けるほど子供でもなければ、なにも言われなくても『あなたのことを信じているわ』と無責任になれるほど、大人でもない。聞き分けがよくて、いつも笑って許してくれるから、井名里は夏清がまだ十六だと言うことを、忘れていた。
「ごめん、なさい……大嫌いなんて嘘。もうどうしようもないくらい好き。大好き。だからお願い。キライにならないで。私のこと、いらなくならないで」
「なるわけないだろう……」
また、止まっていた涙が流れ出す。泣き出した夏清の顔を覗きこんで、井名里が笑った。近づく井名里の顔に、夏清が瞳を閉じた。
「嫌いになんか、なれるわけないだろう? なってくれって言われても、無理だ」
目じりの涙を唇でぬぐう。額に頬にまぶたに、触れるだけのキスをしながら、井名里が続ける。
「悪かった。ごめん。謝るのは俺のほうだ。こんなに傷つけて苦しめて悲しませて。嫌われてもしょうがない。夏清がなんでもしてくれるから、甘えてたのは俺のほうだ」
唇と唇が触れ合って、離れる。
「だからもう、我慢するなよ。嫌なら蹴り飛ばしていいから。一人で全部抱え込む前に、大声で怒鳴っていいから。そのくらいでひっくり返るような俺じゃない」
「うん」
「してほしいことがあったら言えばいい。文句があるなら言えばいい」
「うん」
「もっとわがままになれよ」
「うん」
「いい子じゃなくても、夏清は夏清だろう? どんな夏清も、俺は好きだよ」
「うん」
「これから出てくる新しい夏清も、今まで居た夏清も、全部」
「全部?」
「全部、愛してるよ」
ふわり、と夏清が破顔する。これまで見た中で一番きれいな顔で、微笑むのを見て、つられるように井名里が笑った。
「私も、世界で一番、先生のこと愛してる」
笑いながら、キスを交わす。何度もついばむように重ねて、そのあと深く繋がるように、ゆっくりと深く。
「意地悪な先生と、今のやさしい先生、どっちが本物?」
赤みがさした頬に、井名里の指がすべる。
「どっちも本当の俺だよ」
そうだ。どちらも同じ井名里。けれど、違う井名里。
「やさしいほうがいいか?」
問われて、夏清が頷く。
「やさしいだけでいいか?」
問われて、夏清が少し考える。
優しくされた方がいい。けれど、それだけだったら、きっと優しくされてもそうと気付かないかもしれない。それに、ものすごく、気持ち悪い気がする。優しいだけの井名里は。
想像してしまって、フッと笑って夏清が首を横に振る。
好き、大好き、愛してる。
何度言っても足らないくらい。
そんな思いを全部。
いとおしいものに。
「好きだ」
見上げた井名里の瞳にごまかすような色がどこにもなくて、夏清の心臓がはねるように高鳴る。
「夏清が好きだ。俺のココ、夏清しか住んでない」
井名里が、包帯を巻いた手で夏清の手を取って自分の胸に当てる。
伝わる、心臓の音。
「夏清しかいらない。だからもう嫌いなんて言わせない」
キスを繰り返しながら。触れ合う場所からこの思いが伝わるように。言葉ではなくて、心が。
「うん。私も、先生しかいらない。私の全部、先生がいい」
夏清の手がカッターの上から井名里の胸を探るように動く。
「全部先生だったら、悲しいことなんかないもの。嫌いなんて、もう言わない」
頬にキスが降りてくる。
「なんかね、ほっとしたら、ちょっとねむくなっちゃった」
「ああ、ここにいてやるから、もう寝ろ」
「先生」
「なんだ?」
「助けてくれて、ありがとう」
笑って、そう言って、夏清が目を閉じた。
「いつでも呼べよ」
優しい言葉が、そのまま夏清の中に響いた。 |