はじまりのうた ♪ 2
「まぁた、こんなところで寝てる」
二階の廊下の突き当たり、北向きの窓から初夏の日差しが差し込んむ吐き出し窓のカーテンの裏で、礼良が『ライナスの毛布』とあきれるくらい眠るときはいつも手にしているアニメのキャラクターがプリントされたガーゼのハンカチを口元に当てたみあが丸くなっている。全く気づかず寝入っているみあとは逆に、寄り添うように寝そべっていた犬のあんは少し前に夏清の足音に気づいていたのかひょこっと頭を上げて、やれやれと言った顔を見上げてほんの少しすまなさそうな顔をしている。
「あんが悪いわけじゃないのよ。つい話し込んでた私が悪かったの。でもこんな固いところよりベッドのほうが寝やすいと思うのに」
前回あっちのマンションに遊びに行ってから二週間も空けていない。用がなくても……いやないからこそつい『じゃあこれから会おうか』と言う結論に至ってしまうのだ。昼食をはさんで夢中でおしゃべりしていたらあっという間に午後二時を回っていて、気づいたらみあとあんが消えていた。
お気に入りのハンカチさえあれば、勝手に眠くなったらぐずりもせずに昼寝をしてくれるのはいいのだが、その場所がキッチンの奥、ガスレンジが配置された付近の床上だったり、昔大勢使用人がいた頃の名残である掃除用具を収める小部屋だったり、屋敷の中ほどにある家族が利用する階段下の物置の中だったり……とにかくみあは狭いところに隠れて寝るのが好きらしい。
それも、犬と一緒に。
ある意味同い年の一人と一匹は、大抵一組で行動している。風呂以外は。
ただ、一人前に命令するみあに、あんが『仕方ないな』とでも言いたげな表情で従ってあげている……と言った風だ。ご近所を一周する散歩のときでも、リードを持ってみあはご満悦だが、どう見ても散歩させられているのはみあの方である。健太がリードを持ったときは情け容赦なく走るのに、みあが持ったときは子供の歩幅に合わせてちらちらみあを見ながら歩いてくれているのだ。
人間のみあも、この三年半であっという間に大きくなったけれど、犬のほうが大人になるのは早い。
「あんはいいお姉ちゃんねぇ」
つついても起きる気配のない娘を抱き上げて寝室へ向かう夏清の横をトコトコと付いてくる。予め開けてあったドアの向こうにあるベッドの真ん中に下ろして、タオルケットをかけて整える。
「起きるまで見ててくれる?」
言われるまでもないといった風でベッドの脇に敷かれたマットの上で丸くなったあんに笑って、静かに寝室をでて、一階を探してくれていた樹理を探す。
「ごめーん。上の廊下の隅っこで寝てたわ」
使っていない部屋からちょうど出てきた樹理に夏清が謝る。
「ううん、なら良かった。ほら、この間みたいに……」
「大脱走? あの時はさすがにもうホントに心配しすぎて死ぬかと思ったし、懇々と説教しといたから。出入り口のセンサーも改良して、出入りがあったらチャイムが鳴るようにしたし、図書館側の別門へ抜ける庭にも……こっちはまあ、別の意味で防犯対策もあって前から柵をつけようって話はしてたから。さすがにもう、子供が一人で出て行ったりはできないようになってるよ」
思い起こして二ヶ月前。春もうららかな日曜日。本人の言い分からして、ちょっとお散歩に出かけるつもりが、浮かれて歩いて気づいたら全然知らないところにいたらしい。家からは直線距離で三百メートルくらいしか離れていない場所だったが、それなりに体格のいいリードをつけていない犬を従えて迷子になり、同じ年齢くらいの子供を連れた女性に交番へ連れて行ってもらい、結局あんがつけていた迷い犬用のタグに刻印されていた電話番号のおかげで、末っ子がいなくなったことに気づいて上を下への大騒ぎをしていたところに警察から電話がかかってきた。と言うのが顛末だ。
家に帰り、抱きしめたり甘いものを食べたりして人心地ついたところで、普段なら、親のどちらかが避難所役になるのに二人揃って……いや、何があっても自分の味方をしてくれていた年の離れた姉も揃って三人の大人にかわるがわる説教されて、生まれてから三年間あまり、ひたすら甘やかされて育ったお姫様にも堪えたらしい。今のところまだ、おとなしい。
「樹理ちゃんは、ちっちゃいころの廉君はおとなしそうだし、そんなことなかっただろうね……」
「って言うより、あっちは治安が悪くて、同じマンションで、同じ階での行き来でも親が付いてないとダメだったよ。でも気質の違いなのか、一見して過保護みたいにしてても、向こうの子はスクールに通う頃にはみんな勝手に親から独立するんだけど、元々引っ込み思案なのもあって廉はこっちに帰ってきてからいくら大丈夫って教え諭しても全然一人で行動できなくて。十二になっても私がいないとコンビニにもいけないって、コレじゃだめだって氷川さんが荒療治に、一応GPSつけて、遠巻きに護衛を配置して新宿のど真ん中に置き去りにされちゃったのよねぇ」
「……それも、どうかと思うんだけど」
思い出して懐かしそうにほわほわ笑っている樹理に一応突っ込んでみる。
軽く対人恐怖症を思わせるビクビクした態度の、他人と全く話すこともできない子供をいきなり一人、野に放つのは親としていかがなものなのか。護衛がいるにしても。
しかも、どうもその『初めての冒険』のおかげでもともとユルそうだったネジが五・六本まとめて抜け落ちて、なんだかんだで親切な人と黒子のごとき尽力で支えた護衛に助けてもらいながら家に帰ってきた廉が意気揚々言い放ったのは『ボク、あいどるになりたいです!!』だったらしい。それまで意志らしい意思も示さず、親の与えてくれるものを黙って享受して、テレビもほとんど見ずそんなものには全く興味も示さなかった息子がいきなりそんなことを言い出したら普通の親ならクールダウンの時間を与えそうだが、氷川哉はその足で、一応タレント事務所の社長をしていた義姉のところに廉を放り込んだのだ。
で。結局。
その約一年後、彼は事前に惜しげもなく金と手間をかけて新人としてはありえないような豪華な演出とテレビへの露出で、華々しくデビューした。アレで売れなくてはおかしいと思えるくらい……つまりは億単位の金がかかっていたのだ。『REN』という商品のプロデュースに。年齢と名前以外全てシークレット。つまりは性別さえも非公開だったのだが、世間はみんな彼が『美少女』であると誤認し、出す曲は全てヒットし、コンサートチケットはあっと言う間に完売。テレビの向こうにRENの姿を見ない日はないくらい、どこもかしこもRENに溢れていた。
しかしさすがの変声期を前に美少女路線が続けるのが難しくなってくると、何の未練もなく空前のカリスマを残して芸能界から消えた。本人もやりたいことは全部やったと晴れ晴れとした表情で、それまでのうつむきがちで自信のなさそうなオドオドした少年はサッパリ姿を消していた。
「それで、今、廉君はどこにいるの?」
「うーん。この間までスペインだったかな。のどかでいい所だって連絡があって、次はイタリアに行こうかって言ってたのを却下されて、フランスにしたみたい。だから多分……フランスにいると思う。一応国をまたいで移動するときは連絡するように言ってあるし、携帯端末のGPSも生きてるから調べればだいたいの位置も把握できるわ」
人間、ヘタに自信を獲得すると結構とんでもない方向にロケットか弾丸のように飛んでいく。廉もアイドルを辞めて普通の男の子に戻って、暫く彼なりに地味に生きて北條のフリースクールの高校を卒業してみたものの現状に耐えられなくなり、どちらかと言うと家出のような状態で、バックパック一つでぽーんと海外へ旅立ってしまった。
「いつ戻ってくるの?」
「さあ? 帰りたくなったときには帰ってくると思うんだけど。せめて大学は卒業してほしかったかも」
「……まあ、ウチもよそのことは言えないんだけどさ」
リビングに戻り、紅茶を淹れ直して樹理が持ってきたお手製のお菓子をつまみながら夏清がため息交じりに頬杖を付く。
「健太君? まだいいわよ。だって結婚したんでしょう? 住所も固定だわ」
「根本的なところで根無し草に変わりないわよぅ 前から北欧に行きたいって言ってたし。暫くはこっちには帰ってこないって」
日本の大学で一年半ほど学んで一応幾つかのコースを終えた健太は、帰国して暫くして出来た彼女を連れてフィンランドに渡り、また大学に留学という形をとりながら祖母のコネを使ってあちらの教育研究機関に研究者として潜り込んでいる。彼女の方はちいと同い年で、やっぱり学生の身分のまま留学生としての渡航だ。自分が大学生をやりながら結婚して子供を産んだし、一応仕事らしいこともしているようなので、こればっかりは叱れない。
「でもほら、夏清ちゃんにはちいちゃんもみあちゃんもいるしっ」
ため息をついてなにやら考え込んでしまった夏清に、樹理が慌ててフォローを入れる。
「私も産めたらほしかったなぁ もう一人くらい子供。やっぱり女の子はかわいいもの。RENの時は楽しかったなぁ」
「あー RENはかわいかったよねぇ あのままでいてくれたら天使だったのに。さすがにもうムリだもんね。あの頃がウソみたいにどっから見ても男の子になっちゃって。あ、ちいかみあでよかったら貸すよ?」
夏清の軽口に、樹理がありがとうと笑う。
「廉君は、彼女とかいないの?」
「さぁ? 何人か付き合ってた子はいたと思うけど、一人で行っちゃったから今はどうなのかなぁ うーん。そう言えばRENをやめてから彼女がいなかった期間ってなかったような……」
「ま、あの顔とスタイルならほっとかれないよね。今も案外金髪美人と同棲してたりして」
「言わないで。ありえすぎて怖いから。ちいちゃんは? 付き合ってる人はいるんでしょ? 結婚しないの? まだ若いからいいか」
笑い飛ばす夏清に、樹理が頭を抱えるまねをする。
「あ、話題かえた。どうなんだろ。ちいは宇宙人だからなぁ ナニ考えてるかイマイチ掴めないんだよねぇ とりあえず司法試験は受かってるし、大学卒業したら考えるんじゃないかな。子供ってホントにわかんないよねぇ みあはどうなるんだろ。あ」
「おかあさあぁん! みあもおやつー!! 樹理ちゃんのプリン食べたーいっ」
ワンピースの裾を翻して、犬を従えて昼寝から目覚めたみあが走ってくる。
「えー 寝る前に食べたじゃない。まだ食べるの?」
「まだ食べるー だっておいしいもん」
にこにこ笑いながら子供用のイスによじ登り、プリンプリンと歌いながら机を叩く。
「はいはい。じゃあ持ってくるから。お父──」
「お父さんには内緒でーっす」
夏清の言葉尻を奪って『しぃー』と立てた人差し指を口元においてご機嫌な様子でみあが笑っている。全く持って敵わない。
「今また子育てしたら、きっと楽しいんだろうなぁって、みあちゃん見てたら思うわ」
「確かに。なんとなく孫感覚なんだよね。プリン一日に二個目とか、ちいのときなら泣いても出さなかったけど。どう? レンタルする?」
「そうねぇ みあちゃん、ウチに来る? おやついっぱいあるよ? プリン食べ放題だよ?」
「お母さんも?」
「ううん、みあちゃん一人」
本日二個目のプリンを出してもらってうれしそうにスプーンを使うみあを樹理が覗き込む。
「あんは?」
ちょっと考えるように首を傾げてから、みあが譲れない条件を提示する。
「あんちゃんは来てもいいよ」
「んじゃ、いく」
「なに、その即答」
樹理と自分のカップに紅茶を注ぎながら、なんのためらいもなく同意したみあに夏清が突っ込む。
「樹理ちゃんのおやつおいしいから好き」
「餌付けられたか」
「もう一個食べたい」
あっと言う間にプリンを完食したみあがお皿を持って当然のように要求する。
「もうないよ」
「えー 冷蔵庫にあるよ」
「残りはお父さんとお姉ちゃんの。みあのはもうないの」
「お父さん、ちょうだいって言ったらみあにくれるよ」
「じゃあ、お父さんが帰ってきたらね」
あきれてため息をつく夏清にみあが残念そうにぶーっと膨れながらも、皿をシンクに持って行き、てけてけと帰ってきて樹理にじゃれついている。
「お母さーん。みあ、いつ樹理ちゃんちの子になるの? 今日?」
「え? いや、樹理ちゃんちの子にはなれないよ……それに今日はダメ」
「えー みあ、今日行きたい」
「今日は、ちょっとムリかな。来週末に来る?」
膝によじ登ってきたみあの顔を覗き込んで樹理が笑う。
「行くっ! お母さん、きちーちゃんのリュックだしてっ!」
「はいはい」
何も分かっていないけれど、なんだか日常とは違うことらしいと、みあが樹理の膝から飛び降りて、ぴょんぴょん跳ねている。
「いいの? ホントに。犬付きだよ?」
「ウチはいいよ、一泊くらい。夏清ちゃんこそ相談しなくていいの?」
「一泊くらいなら多分ね」
かくして。
大冒険以後刺激の足りない生活をしていたお姫様も、さすがに知らないうちに犬連れとはいえ一人で泊まるのはムリだろうと、夜半まで起きて連絡を待っていた親や姉の予想を見事に裏切って、翌日の夕方ご満悦で帰宅し、それ以後、月に一、二度氷川家にお泊りするようになってしまった。
|