はじまりのうた ♪ 3
「でねでねぇ これ、廉君からみあにお土産なの。リコとおそろいなんだよ」
言いながらテーブルに広げられたのは、とにかく付けるだけ付けてみましたと言うか、フリルとレースとリボンの塊みたいな……シルクのパジャマが二着。
初夏の日差しがくっきりとフローリングの床に窓の形を刻むみあの部屋。自室でのんびり本を読んでいたところに転がり込んできた珍獣、もとい、一応人間。みあより三歳年下で、まだ十一歳。だが、すでに身長はみあと変わらないくらいある美少女。氷川理利子。
「リコのがピンクで、みあのがブルーなの。今夜はお泊りしていいってママが言ってたから、コレ着て一緒に寝ようねー?」
小さい頃からお互いの家を行ったり来たりしているので、みあも理利子もお泊りは日常の一部だ。
にこにこ。
生まれてこの方毛先の手入れのためにほんの少し切る以外、伸ばし続けた結果垂らしたらお尻の位置より長い、蜂蜜色のゆるくウエーブした髪を頭の高い位置でツインテールにわけて一部を三つ編みにした理利子が、黙々と本を読むみあの顔を、ブルーと金色が混じった大きな瞳を細めて後ろから覗き込み、にっこり笑いかける。やめてと言っても聞き入れられないのでなすがままだが、いそいそ櫛を取り出して理利子がみあの髪をおそろいのツインテールに仕上げてリボンを結ぶ。鏡を見なくてもわかるけれど、きっとリボンはゆがんでいる。人の髪は何とか結えるくせに、なぜだかリボンだけは結べないのだ。
「あ、ぱんつもあるよ、ドロワーズのー」
「…………出さなくていいから」
髪をいじったあと、大きな紙袋をゴソゴソあさる理利子を、さすがに本から顔を上げてみあが止める。
「んー……じゃあ見てのお楽しみねー まだ本、読む?」
「……もういい」
「わーい。じゃあ遊ぼ? そうだ、あんにもお土産あるんだよ。これはリコからなの。パリじゃなくてハンズだけどねっ! じゃじゃーん。牛の骨ー!!!」
再び袋を漁って取り出したのはパウチされた、それを掲げる理利子の腕より太い牛骨。
「……うれしいけど、あんはもうおばあちゃんだから、あんまり固いのは噛み砕けないと思うわ」
「うん、ハンマーで砕いていいんだって。中身がおいしいらしいよ。割ったらでるよ、ドバーって。えーっと、脳髄? バーンってでるのは脳みそ?」
「………骨髄。それに、それは燻製されてるからドバーっとか、バーンとはでないと思うよ」
かわいい女の子がかわいい笑顔で言っていい言葉だろうか。
「そうなのかー ちょっと残念。ハンマーある? がっちーんてカチ割ってー」
「……あると思うけど、リコにはムリじゃない? すいかだって割れないし。お父さんに頼んだら?」
「だねー みあのパパなら一撃で粉々にしてくれそう。頼んでくるっ あん、おいで」
二人の足元でゆったりと寝転がっていたあんが、のっそりと起き上がってみあを見上げている。
「私も行くわ。おじさまたちにご挨拶もまだだし」
勝手に理利子をあんと行かせたらまたふざけてあんに跨って遊びかねない。黙って座っていたらお人形のように愛らしくて文句なしなのに、口を開くとバカ全開、そしてその行動は輪をかけて非常識なのだ、この少女は。
二人と一匹で入ったリビングには、予想に反して一人しかいなかった。
「あ、廉君も来てたんだ。こんにちは。お久しぶり。お土産ありがとうございました」
「うん。ごめんね、リコの趣味に合わせてちゃって。今度また違うのあげるよ。どんな色が好き? みあちゃんは何でも似合うよね。チャイナとかいいよねー 短期で上海出張の仕事ないかなぁ」
優雅な動作でカップをソーサーに戻して、しっぽをふりながら近づいていったあんの頭をなでているのもやたらと様になる。
「廉くーん。パパたちは? せっかくこれ、カチ割ってもらおうと思ったのに」
「図書館に行ったよ。何か探したい本があるんだって。リコ、僕がいない間にまた変な日本語覚えたね?」
「え? カチ割るじゃないの?」
左手に骨を持ち、右手で何かを振り下ろすような動作を繰り返していた理利子が不満そうに口を尖らせる。
「普通に『割る』でいいよ」
「えー カチ割るのほうがカッコいいよ」
「女の子が使っちゃいけません」
「ええー そうなの? みあ」
「そうね。私は使わない」
「フランス語だって形容詞がちがうでしょ、日本語にも男女で違いがあるって何回言ったら……」
「リコは使いたいー もう、廉君イチイチうるさいよ。Salue パパたち探しに行ってくる」
くるっと背を向けて、骨を握ったまま理利子が長い髪をなびかせて走り去る。
その後姿を見送って、暫くよく分からない沈黙が続き、どうしたものかを見回して、廉のカップが空になっているのに気づく。
「えっと、お茶、お代わり、いる?」
「もらおうかな。冷蔵庫にレケセードのケーキ入ってるよ。みあちゃん好きなのどうぞ。僕はもう食べたからお茶だけでいいよ」
ハイと返事をして、キッチンへ向かう。紅茶を蒸らしている間に冷蔵庫を開けてピンクのボックスに入ったかわいい数種類のケーキからベリーのムースを選ぶ。
自分のケーキとお茶、廉のお茶を載せた盆に、ついでに温めたミルクを載せてリビングに戻ると、廉が頬杖をついてぼーっと庭を見ながら、足元に転がるあんを裸足の足の裏でなでている。脇に脱ぎ捨てられた靴と靴下。
「あんって気持ちいいよねー 生絨毯って感じで」
「でもだいぶ、昔より毛が固くなってきたよ。おばあちゃんだから、あんまり毛が生え変わらなくなったみたい」
マッサージするようになでてもらって、あんが目を閉じてくったり身を任せている。ミルクよりこっちの方が魅力的らしい。首の横をグリグリされて、後ろ足が空を掻くように誤作動している。
下敷きになる犬に足の重みを乗せないようにするため、人間には結構つらい体勢なのだが廉はゆるゆる足を動かしている。
「みあちゃん、リボンゆがんでる。理利子作?」
「うん。変?」
「ギリギリ大丈夫じゃない感じ。直してあげよう」
十人くらい楽に食事が出来るような広いテーブルの、入り口側の角に座っている廉と、角を挟んで三つ分くらい離れた位置。みあの定位置は窓側の角だけれど、離れすぎた場所に座るのも、隣に座るのもなんとなく避けて座ったのに、裸足のままみあの後ろにやってきてなんだか上機嫌に鼻歌を歌いながらゴソゴソやっている。
「ふふふーんっと。でーっきたっ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
紅茶のカップを引き寄せてすとんと先ほどの席ではなくみあの隣に座ってしまう。それにあわせてあんが廉の足元に移動して続けてくれと言わんばかりに転がる。
「そう言えばあんって、みあちゃんと同い年だっけ」
言いながら再びぐりぐり足の裏でなでてやっている。
「うん、そう。十四歳。犬の年だと、七十歳越えたくらいかな。中型犬だし雑種だから、ラブラドールとかよりは生きてくれると思うけど、去年も夏、しんどそうだったし。でもまだまだ長生きしてほしいと思ってる。私、兄姉がいるけど年が離れてるからなんていうか、若い叔父と叔母がいるみたいでしょ? あの人たちってほんと、そう言う感じ。一緒に育ったって意味では、あんのほうがよっぽどお姉ちゃんみたい。リコも妹みたいだけどね」
「あの人たちはねー 超越してるよね、いろいろ」
あなたには言われたくないと思う、と心の中でだけ反論して、笑顔で頷いておく。まあ、変人なのは否定しない。兄姉たちも、そして目の前の人物も。
姉秘蔵の映像コレクションの中で歌って踊る超美少女だったなんて、今の彼を見て誰が想像できるだろう。十三歳で彗星のごとくデビューして、十五歳の半ばでこれまた流れ星が消えるがごとくすっぱりと芸能界から引退してしまった正体不明のアイドル、REN。みあが生まれた頃の話なので、みあも映像でしか見たことがないけれど、RENをやめた後、十代の後半にめきめきと男らしくなった体型や声のため、じっと見れば似ている気もするが、もうライトを浴びてメイクをしていたあの頃のRENの面影はほとんどない。
しかもある日突然『見聞を広めたい』と言い残して世界旅行に出かけ、あっちこっちフラフラした挙句、やっと戻ってきたときはその手に五歳になったばかりだという理利子を抱いていたのだ。
さすがの事態に突拍子のないことばっかりやっている姉もびっくりしていた。本当に廉の子供かとみんながこぞって何度も質問していたが、
「そうだって言ってるじゃん。一応親子鑑定したよ? でないとさすがに僕みたいなのがこんな小さい子連れて旅行なんてできないってば」
と、にこにこ繰り返していたのを、当時八歳だったみあもよく覚えている。と言うより、氷川家に帰ってきた廉を一番に出迎えたのは、お泊りに行っていたみあで、たまたま姉が土産を持って来ていたので久しぶりにみんなでゴハンを食べようと、迎えついでにみあの両親も来ることになっていた為、みあは自分の家族を出迎えようとしていたのだ。
大人たちが大人たちの話をしている間、いきなり知らない国に来て心細そうにしていた全く日本語を話せなかった理利子と身振り手振りで必死に遊んで、さらに懐かれてしまってしばらく氷川家から学校へ通う事態にもなった。
何でもフランスでお世話になった女性との間の子供らしい。別れて廉が他の国へ渡った後に妊娠が発覚、産もうと思うと連絡があって、廉は何も考えないでいいんじゃないのと承諾した。
それから季節がいくつか過ぎて、無事生まれたと言う報告と、名前をつけてほしいと言われて、付けた名前が理利子。てっきりミドルネームに使うのだろうと思っていたら理利子の母は彼女にこの名前だけしかつけなかった。
会うことはなくても廉はきちんと娘の誕生日とクリスマスにはプレゼントを贈っていた。その後プレゼントを持った写真だったり、映像だったり、直接の電話だったりとお礼がくるのでいつも連絡先を沿えて。
理利子が五歳になる誕生日にもロングバケーション中の南の島からプレゼントを贈り、誕生日から幾日か過ぎてそう言えば連絡がないなと思った時に、知らない番号から通信が入った。
彼女の自宅も端末も、廉は登録しているし、知らない番号からの通信は受けないのだが、有人端末のオペレーターから告げられた発信先が病院だったので、何事かとその通信を受けたら──彼女が危篤だという知らせで、とにかく取るものもとりあえず飛行機に飛び乗って十二時間後。廉が対面した時にはすでに物を言わぬ人となっていて、映像や写真で見ただけの娘が、廉がプレゼントした巨大なサイとパンダが融合したぬいぐるみを抱いてぽつんとそのベッドサイドに立っていた。
彼女の親類縁者が子供の引き取りを拒んでいることを聞いて、その場でDNA鑑定を了承して引き取ることを決めたものの、若くて無職でまた間の悪いことにそれなりに長期間のバカンスで真っ黒に日焼けしていて東洋人でオマケにフランス語が片言だった廉は、マイナス要因満載だった。
有能な弁護士と通訳を雇って自分の所有財産を提示し、最終的に理利子本人が承諾してくれてなんとか親権を得て帰国したのだ。
しかしそれまでフラフラ遊んでいた人間が、突然父親になれるはずもなく、結局日本で理利子を育てたのは廉の両親で、理利子は祖父母のことをパパママと呼び、実の父は廉君呼ばわりである。
廉に好き勝手させていた哉も、さすがにこの件には相当怒ったらしく──子供がいることなど全く伝えていなかったのだから当たり前だが──以後、廉はそれまでの自由度がウソみたいに労働保険法の適用外になる役付き社員として入社させられてこき使われている。多国語がある程度理解できるので、海外事業部に入れられてあっちこっちと世界中飛び回っている。
「最近会ってないけどみんな元気?」
「んー 元気なんじゃない? 連絡ないし」
兄は今、活動のフィールドを全世界的に展開していて、時々居場所が分からないし当然連絡が付かない。姉は大学を卒業後検事になったが、周囲の予想を裏切らず数年で検事をやめて弁護士になり、一応東京都に分類されるが、本当にそこに弁護士が必要なのかわからないくらいのどかで南国な孤島で悠々自適な生活を満喫している。こちらも時々連絡が付かないが、それと同じ頻度で突然情報番組でコメンテータをしていたり、それに乗じて海産物を持って何の連絡もなく帰省する。
二人とももう結婚していて、姉のところは最初から子供を作らないと宣言したとおり、実子はいないが、兄のところは逆に六人も子供がいる。一番上が理利子と同い年のはずだ。
世界中フラフラしてる割に、兄の家族全員全く日本に寄り付く気配がない。通信ではその姿を見るが、兄夫婦はともかく子供たちは完全に英語を母語とし、日本語なんて端から覚える気のなさそうな彼らと言語のみによるコミュニケーションはほぼ放棄しているみあだ。
今日来た理利子にしても、興奮したら突然フランス語を話しはじめるので要注意だ。せっかくフランス語を話すことができるのだからとフランス系のナショナルスクールに通っているので今現在もペラペラだ。逆に日本語のほうが怪しいくらいで。さすがにさっき残していった『Salue(サリュー)』は『じゃあね』と言った意味だと分かるが、早口でやられたら理解不能だ。
「廉君は暫く日本?」
「んー 多分ね。さすがにそろそろ落ち着きたいかも。来年三十だし、リコも中学に上がるしねぇ」
「落ち着くって、結婚、とか?」
「それは無理かも。リコがいるし」
あははははーっと力なく廉が笑う。
「別に、かまわないって人もいるんじゃないの? 廉君、将来社長でしょ? お金持ちだしカッコいいし」
「シャチョーねぇ 僕みたいなのがなったらきっと会社潰れるからダメだね」
「あ、お金持ちとカッコイイのは否定しないんだ」
再び力なく笑って廉が背もたれに身を預ける。
「それ否定したらみんなが僕をウソツキ呼ばわりするんだもん。ムダに争わない主義なの。表立っての駆け引きもできないのに、腹の中を読むとかムリ。シャチョーとか絶対ムリ。よっぽど慶ちゃんのほうが似合ってるよ。で、えーっと、なんだっけ。あ、そうだ、お見合いの話。お相手はよくてもリコがだめなんだよねぇ すごい怖いのよ。終始威嚇してるって言うの? この前本気で噛み付いたもんね」
「え? 理利子ってわりと愛想がいいって言うか、誰にでもニコニコしてるイメージが……」
「うん、そう。どうでもいい人にはニコニコうわべだけ愛想良くできるんだよ。好きな人にはべたべたに甘えるし。でもいやな人間には容赦ないって言うか、あんには悪いけど獣並みの行動に出ると言うか……でもお見合い仕切るのが好きな人っているじゃない? さすがに毎回断るわけにも行かないし、何回かに一回くらいは行くわけよ。さすがにリコ抜きがここの所多かったんだけど、こないだのはリコも連れてきてって言われて、まあ、連れてったんだけどね。最初は落ち着かなくても睨んでても何とかイスに座っててくれたんだけど、相手が話してる途中でこう、がぶーっと」
カップを持たない右手を口に見立ててみあの腕をつかむジェスチャー。
「あ、ごめん、びっくりした?」
腕を掴まれてびくっとしたみあに廉が申し訳なさそうな顔をして腕を放す。
「ん、ちょっと」
気まずさをごまかす為に、ムースをばくばく口に運ぶ。
「まぁ、そう言うわけなの……って、みあちゃん?」
「ん?」
スプーンを咥えたままマヌケな返事をしたみあを見て、廉が表情ごとちょっと止まった後、笑い出す。
「口のふち、すごいことになってるよ……あ、これもおいしいなぁ 今度コレ食べよう」
言葉と同時に伸びてきた廉の指が唇に触れる。掬い取ったムースやソースの付いた指を舐めて、至近距離でにっこり笑うのは反則だ。いろいろ。
顔が赤くなったことがばれませんようにと祈りながら、うつむいて容器に残ったムースをかき集める。
「ああああー! ずるいずるいっ! リコもケーキ食べたい!! みあだけずるいよっ リコ、みあと一緒に食べようと思ってガマンしてたのにぃ」
「……ごめん」
パウチの袋に入ったままで見事に粉砕された牛骨を振り回しながら理利子が駆けて来る。
「大丈夫よ。きっとリコが二つくらい食べちゃうだろうと思ってたくさん買ってきたから、みあちゃんもうひとついかが?」
一緒に帰ってきたらしい夏清と樹理が一人大騒ぎしているリコを見て笑っている。
「食べるっ! Je t'aime beaucoup ママ素敵過ぎ!!」
ちゃっかりとみあの横に座って、ケーキが出てくるのを待つ体勢だ。
寝そべっていたあんがのっそりと起き上がり、理利子の持つ袋のニオイをふんふん嗅いでいる。
「あ。あん、コレ食べる? みあ、入れ物ある?」
「あるよ。取ってくるね」
空になったムースの容器を持ってキッチンに行くと、母たちがお茶の準備をしている。
「お父さんたちは?」
「なにかいろいろ話したいみたい。アレ割ったらまた図書館に戻ったわ。何か用があった?」
「ううん、別に」
お茶とケーキは任せてプラスチック製の犬用の皿を取り出して戻ると、待ちきれなかったらしいあんがリコの手から骨のかけらをもらって窓辺に寝そべり理利子になでられながら、ガリガリ飴を舐めるように口の中で骨のかけらを転がしている。
「リコ、手を洗わないとケーキはダメだからね」
「えー 別にあんは汚くないじゃない」
「ダ、メ、で、す。洗ってきて。早くしないとリコの好きなラ・フランスがのったやつ、私が食べるからね」
それだけは絶対ダメ! と言い残して、みあが指差した洗面所へ向かって理利子がダッシュする。軽くため息をついたみあを、廉がにこにこ見ていた。
「なに?」
「いやなんでも。まあ、そのうちね。母さーん、みんな食べるならやっぱり僕ももう一個ちょうだい。あ、手、洗ってこよう」
何か含みがありそうな廉の笑顔に問いただそうと口を開いた瞬間、するりと立ち上がって、猛スピードで帰ってきた理利子と入れ違いに出て行ってしまった。続いて母達もキッチンからやってきて、さらに食べている途中で父達も帰ってきて、結局何も聞けなかった。
「廉君がさ」
「んー?」
「またお見合いしたって?」
「うぁ ぐ……リコはなにも悪いことしてないもん」
二人でベッドに座って、理利子の長い長い髪を三つ編みしてやる。でないと、この髪は絡まってえらい事になるのだ。しかも、理利子の髪は長すぎて、自分では梳かせない。髪が長いので向かい合っていても編めるのは利点と言えば利点か。
「ほら、動かないで、ほどけちゃうよ。別に怒ってないし。噛んだんだって?」
「………変なオンナだったんだもん。ニオイも気持ち悪いし。リコはママみたいないいニオイがする人がいいんだもん」
ぷーっとほっぺたを膨らませて理利子がつぶやく。
「変なこと聞いて悪いんだけど……リコは、その、覚えてるの? リコのお母さん」
「え? 産んだほうのママ? うっすら覚えてるよ。結構美人だったと思う。でも廉君よりはかなり年上。仕事大好きでリコはほとんどヌヌといたけどね。あ、えーっと、ヌヌっていうのは、日本語でなんていうの? ママの代わりの人」
知らない単語に首をかしげたみあに、理利子がコメカミに指を当てて唸る。
「えーっと、子守り? ベビーシッターのこと?」
「そうそう。ずーっとお仕事ばっかりしてて、自分の体のこととかもあんまりお構いなしで、気がついたらもうガンがいっぱいになってて手遅れで死んじゃったの。うん。で、リコは廉君とこに来たのね。
別にね、いいのよ。廉君が結婚するのとか。どっちかって言うとリコは廉君のパパとママが親っぽいっていうか、廉君は初めっからパパって感じじゃなかったし。けどねっ」
ゴムで縛って仕上がったので髪から手を離した瞬間に、理利子がベッドの上に立ちあがる。
「あんな変なオンナはイヤだったの。絶対ダメ。廉君がいくらコブつきでもダキョウは許さないわ」
「……どこでそんな言葉覚えたのかは聞かないことにするけど、自分がそのコブだってことは分かってる?」
「うん。でもこのコブは取り外しできるよ? 今だって廉君は一人暮らしだもん。仕事忙しいし、忙しくなくても廉君、ゴハンも炊けないからリコの面倒見れないし、リコも面倒見れないし。でもあの女だけはっ」
「わかったから……」
一体どんな女性だったのか。基本的にあまり人見知りしない理利子が敵意むき出しな様子からして、いい印象の人ではなかったのだろうが。
「わかってないよ。みあは全然わかってない」
「え?」
櫛を片付けてベッドに戻ると、膝を付いた理利子が両手ででかけふとんをバシバシ叩いている。その様子に、近くで丸くなっていたあんがお気に入りの毛布を引きずって避難して行く。
「んもう。今日だって別に、廉君来なくてよかったのにって言うか、誘ってないのについてきたのよ? みあに会いに来たに決まってんじゃん。よそのおうちには付いても来ないよ?」
「え? あ、そう、なの?」
「そうなの。それにね、お土産ネタが尽きてリコに聞くのよ? 『みあちゃんが喜ぶものってなんだろう』って」
「……で、このパジャマなのね……」
ベッドのヘリに座って襟のフリルを摘んでみあがため息をつく。なるほど、そう言うわけか。けれど廉が謝っていたところを見ても、コレは理利子の趣味だということは知っていたらしい。どうせならみあのものだけもう少しシンプルなデザインのものを選んでくれたらよかったものを。ただし、チャイナ服はいらない。
「リコはね、廉君はぜえぇええぇええったいに、みあのことが好きなんだと思うの」
ぱこぱこかけふとんをたたきながら理利子が力説する。
「や、あの、それは、好きの意味が違うと思うけど。だって、すごく年、離れてるし。って言うか、リコのほうが近いくらいだし。えーっと、まあ、嫌われてはないと思うけど、どっちかって言うと娘とかそう言う……」
「だーかーらっ! 分かってない! 分かってないって言ってるのよぅ!! みあだって廉君のこと好きなくせに! リコが気づかないとでも思ってたの?」
にじり寄ってくる理利子に思わずみあが仰け反る。吸い込まれそうな瞳を見ていると、中身が全部暴かれているみたいで、顔に血が上るのが分かるけれどもはやどうしようもない。
「むきーっ! じれったいなぁもう。夜這っちゃう? タクシー呼んで廉君家行っちゃう?」
………だから、どうしてそう言う言葉を知っている。誰が理利子にそんな言葉を教えるのか。そこまで考えて、ああ、そう言えば自分もまだ子供なのだと思い出して息を付く。
「行きません。ダメ。大体、全部リコの想像と妄想じゃない。廉君の気持ちなんて分かりません。ほら、もう寝るよ。電気消すよ」
「えええええー もう。リコは廉君にもみあにも幸せになってほしいのっ もう絶対諦めないから」
枕元のリモコンで電気を消すと、しぶしぶふとんの中に潜り込んでくる。姉のお下がりのこのベッドは二人で寝たところで余るような大きさなので、全く寝苦しくはない。
ブツブツつぶやいている理利子に、もう一度ため息をついたみあが話しかける。
「あのね、リコ」
「なになにっ?」
「私、そう言うことは自分で言うから絶対、勝手に廉君に言わないでよ? 言ったら絶交」
「ぜっ……こう……」
「そう」
できるだけ怒っていることを伝えようと背を向けたまま語気を強めて答えてみたものの、なんだか予期しないくらい堪えているのか理利子が何も返事をしない。いぶかしんで向きを変えると理利子が申し訳なさそうにへらっと笑っている。
「ごめん、みあ。ぜっこう、ってなに?」
だから、どうして夜這いを知っててそんなことも知らないの、とは言えず、みあは深々とため息をついた。
2009.9.2 fin
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