4 奈良
寝不足だ。
しかもかなり。
普段ならこのくらいの睡眠不足などなんでもないけれど、修学旅行であり、移動が多く、歩き回ることから疲労が重なる。一応グループのリーダーにもなっているので、それなりに神経も使う。三時を回るころには意識しないと魂がどこかに行ってしまいそうだった。
しかも夏清の疲労をさらに五倍増しにしてくれるのが、井名里からのメールだ。
三十分と空けずに『今どこ?』『これからどこに行く?』と入ってきて、五分以内に答えないと続けてどんどんメールが入ってくる。
「大変だね……委員長……」
「…………」
必死でメールを返している夏清に、クラスメイトが同情したように声をかけてくる。
「昨日電話してきてたカレシ?」
「うん、まぁ」
普段ならこうまであっさり答えなかったけれど、警戒心のレベルが落ちていたのかもしれない。言ってからしまったと思った時にはすでに周りを固められていた。
「どこの人?」
「どんな人?」
「何歳?」
「年上?」
「どこに住んでるの?」
「なにしてる人?」
矢継ぎ早に四方八方から質問が飛んでくる。いくら夏清の頭の回転が速かろうと、聖徳太子の話ではないのだ、訳がわからなくなって答えられない。
「え、いや、その……」
顔が引きつる。どうしよう。適当に言ってごまかさないと、シャレにならないことになりそうだ。
回りにいる少女たちの目がキラキラしている。当たり前である。全く恋愛に興味のなさそうな堅いイメージの委員長が、これだけ頻繁にメールをやり取りしているのだ。人の恋愛話を糧にして、少女たちは耳年増になってゆく。
「その……」
夏清が考えながらどうやって事態を収束させようかと口を開いた時、チャララ〜ンチャラララ・ラ〜ラ〜ン、とその場の雰囲気をぶち壊す着メロが流れだす。
「あ。ちょっとごめん」
夏清が携帯を取り出して、人の輪から離れる。
「普通さ、カレシからの電話、トッカータにする? なんか聞くだけで地獄の隅っこにいるような気にならない? あの曲」
「ギャグだよね。絶対……コントだよ……だって『ちゃららーん♪ ハナから牛乳〜♪』だよ?」
「ってかカレシ知ってんのかね?」
「あー 私、カレシからの着メロ松田聖子」
ハイ、と手を上げて草野が『あなたに会いたくて』を歌い出す。他の少女たちが頭を抱えた。
「やめてー キリカ……本気で似合わないよ。鳥肌立っちゃう」
「失敬だなお前ら」
「いまは! キリカの話じゃなくて委員長!! 電話とかメールとか入ってきてさ、嫌そうではないよね。どっちかって言うと『しょうがないひとね』ってカオしてるもん。なんだかんだで嬉しそうだよね、電話あると」
「じゃあカレシは年下か?」
「どうだろう? 昨日もバカバカ言ってたし」
「確かに。委員長なら年下も似合うかも」
「どうする? 小学生とかだったら」
「それは犯罪かもしれないよ……マンガじゃないんだからさ」
五メートルほどの距離を置いて、自分が何を言われているかも知らずに、夏清はひそひそと電話での会話をしていた。
「なっ! 神戸って!! 神戸は明日でしょう!? 行ってきたって…なに考えてんのよ!?」
いきなり、夏清の声のボリュームが上がる。
「神戸?」
「神戸は明日だな」
「もしや委員長のカレシはこっちに住んでるのか?」
「かもしれないねぇ」
「だからどこにいるのかとか詳しく知らせろってメール来てたとか?」
真後ろで興味津々チェックされているとも知らずに夏清が悲鳴のような声で電話に答えている。
「だからっ! 仕事は? 人に任せたって……給料もらってるんでしょう? わかってない!! 大体昨日だって……今? さっきメールしたところ。話逸らさないでよ……近くまで来てるって…え? 今から!? 行けるわけないでしょう? 私は修学旅行なの、グループで移動しないといけないの、個人で動けないんだって……キモチわるいから泣き真似しないでよ、いい大人が……わかったから、わかったって、行くから……うん、わかる。大丈夫……わからなかったら電話する……」
電話を切って、夏清が肩で息をする。一体なにをしているのだ? 生徒主体の自由行動とは言え、何かあったらフォローにまわらなくてはいけない立場の教師が勝手に動いていていいものなのか?
「……ごめん、ちょっとはずれていいかな?」
「どうぞどうぞ!」
「いいよ、わたしら適当にやってるから」
「ゆっくりしてきていいから!」
振り向いて聞いてきた夏清に、クラスメイトたちは満面の笑みで答える。
「本当にごめんね、集合時間までにはバスに戻るから……」
手を合わせて頭を下げてから、夏清が走って去って行く。
「尾行だ」
草野がそう言い放つと、満場一致で少女たちは、夏清のあとを追いかけて行った。
「遅い」
「そっちこそどこいってたのよ!?」
全力疾走で言われた通り、奈良公園館前につくと、井名里が火のついていないタバコのフィルターを噛み潰して立っていた。
ぜいぜいと息をつきながら近づく夏清の腕を取って、先に購入していたチケットを出しそのまま建物の中に入る。
「神戸」
「だからそれは明日でしょう!! 何してたのよ、わざわざ神戸なんて…」
「ナニって、買い物」
展示物を見るわけでもなく、まっすぐ井名里が迷うそぶりもなく早足で向かったその先は。
「ちょっ……」
からからと軽い音を立てて、ドアが開き、自然に閉まる。
「どこ連れ込むのよ!?」
井名里が内側から鍵をかける。
「トイレ」
わかっている。しかも身障者用トイレだ。車椅子の人でも使えるように、広いトイレ。薄暗かった室内が、蛍光灯の冷たい光りで満たされる。
「ちょっとまって。まさか、ココで?」
さーっと、夏清の顔の血が引く。覆い被さるように逆光になった井名里の唇の端があがったように見えた。
「お嬢さん? コレなんだ?」
「あ……」
井名里がスーツの内ポケットから、八センチくらいの白い包みを取り出してにっこりと口元だけ笑う。目は笑っていない。
「やってくれたねぇ」
じり、と近づく井名里。じり、と下がる夏清の顔にも、なんとも言いがたい複雑そうな表情がある。笑っているような、しまった……と言うような……
「は、ははははははっ……」
冷たいタイルが夏清の背中にあたる。行き止まり。井名里の顔がどんどん近づいてくる。自然と、乾いた笑いがこみ上げてきた。
「ごめんなさい」
「ごめんじゃねぇよ!! しかもまぁ俺のトランクスの中とは凝ったところにいれてくれたもんだな?」
井名里が、あいた左手を夏清の頭の横につく。
井名里の荷物は、全部夏清が入れたのだ。その時イヤガラセでなにかわざといれないでおこうかと思ったけれど、どうもそれはあまりダメージになりそうになかったので、逆にいれてやったのだ。普通、男性が絶対持っていないものを。
今、井名里が右手に持っているものを。
荷物のなかに、生理用品……ナプキンを。
出掛けにでももう一度自分で確認するように言っておこうと思っていたのに、一人で浴びるつもりだったシャワーが邪魔され、つつきまわされたおかげで家を出るときはもうそんな余裕はなかった。というより、今の今まで、すっかり忘れ去っていた。
見つけやすいように入れておいたつもりだったが、バッグの中はかなり余裕があった。おそらく移動中にそれも勝手に移動したのだろう。
井名里は全く疑うことなくそのまま大浴場にそれを持っていき、風呂から上がって、服を着ようとした時。全く無防備になっていたとき、はた、とそれが落ちてきたのだ。しかも、点呼のあとだったので生徒はいなかったが、隣には学年主任の高橋がいた。
しまったと思った時には遅かった。隣に高橋がいることすら忘れて井名里は搾り出すように『あ……の、バカが』とつぶやいていたあとだった。
高橋に、恋人にいたずらでもされましたか、おモテになる人はちがいますなぁ、とか嫌味を言われた。私なんか妻も誰もやってくれませんよ、から始まった高橋の愚痴に延々一時間近く付き合わされる羽目になった。
「それは、自分で荷物チェックしなかったからでしょう!? そういうことされるのが嫌なら自分でやったらよかったんじゃない! 人のせいばっかりしないでよ」
「あー 再確認させていただきましたよ。ヒトを簡単に信じちゃいけないって」
それを聞いて、ちくりと夏清の胸が痛む。本当に夏清のことを全く疑ってなどいなかったのだろう。しかし、自分がその前にナニをしたのか胸に手を当ててよーっく思い出してほしい。
「もう! ほんとに自分のこと棚どころか天井裏に隠してそういうこと言う!? 何にも言ってくれなかったくせに」
「何もって、なにを?」
井名里が、右手もついた。顔と顔の距離がゼロになりそうだ。
「いっ! いろいろっ!! それに、こんなとこで……」
思わず夏清は目を閉じて叫んだ。おかしい、悪いのは自分なのか? 絶対自分のやったことくらい、かわいいいたずらのはずだ。少なくとも井名里が夏清にやろうとしていることよりは。
「俺はやりたいよ」
「私は、やだ。こんなの普通じゃないよ」
「心臓がばくばくしてるだろ?」
耳元で井名里がささやく。それだけで、より一層心臓の鼓動が早く大きくなった気がする。
「わた、しはっ! 普通がいいの! こんな外の……いつ誰がくるかわかんないとこで…」
「いつも同じじゃ飽きるだろう?」
「飽きない!!」
首を振ろうにも少しでも動いたら井名里の顔に触れそうで夏清はただじっとする。
「いつもとちがうから、余計興奮してるだろ?」
「し、て……ない………」
夏清の足の間に、井名里がひざを入れる。夏清の体が逃げて、爪先立ちになる。不自然な体勢に追い立てられて、夏清が壁に張り付くようにのけぞった。
ベストの上から、左胸を掴まれる。夏清が息を飲んだ。
「やめッ……や、だ……」
「心臓、壊れそうだな」
息が、耳にかかる。身をすくめて離そうとするのを許さずに、耳の輪郭をなぞるように、井名里の薄い唇が這う。
心臓なんかとっくに壊れている。夏清の意思とはまったく違う場所で動いているのだから。
するりと、井名里の手が閉じることのできない素足の内腿を撫で上げた。
「いっ……!!」
叫ぼうとした夏清の口が、キスでおおわれる。とっさの事に、夏清が井名里の唇に噛み付く。
がり、と音がした。反射的に井名里が顔を離す。薄い唇に、紅い血がにじむ。
「あっ……ごめっ」
謝って伸ばした夏清の手が、井名里の手に阻止される。
「舐めて」
そう言われて、どきりとする。一瞬躊躇してから、夏清が井名里の肩に手をかけて、顔を上げる。
そっと唇に舌を這わせると、鈍い鉄の味がした。そのまま舌を絡めとられて、キスが再開される。
「ん、ふ……あ、っく」
さわさわと往復しながら、井名里の細い指が、手のひらが、徐々にスカートの中に進入してくる。
「せん、せ……やめ……お願い……」
制服を着たまま、やったことはなかった。家に帰ったら夏清が真っ先に着替えるのも理由の一つだが、それよりも、どこかでけじめをつけないといけないような気がした。だから、学校では必要最低限しか会話をしないし目もほとんどあわせない。お互い、制服とスーツのときは、他人のフリをするのだと、申し合わせたわけではないけれどそれは自然に二人の中にあるルールのように、夏清は考えていたのだ。それなのに。
「制服、着てなんて……やだ……よ……ッあぅ……んっ!!」
夏清が必死で止めても、井名里は全く聞き入れない。それどころか、グレーのスカートの中に入ってきた手は、何度かじらすように行ったり来たりしたあと、目的の場所に到達した。
「……だから、だろ?」
指が、ショーツ越しに往復する。
「ちがっ……」
「違うなら、なんでこんな濡れてるんだ?」
挑発するように笑って、井名里が己の唇ににじんだ血をなめた。
「そっ……れは……先生がッ!!」
顔に血が上る。言われなくてもわかっているのに、どうしてこんな風に意地の悪い言い方しかしてくれないのだろう。
懸命に壁にすがって腰を浮かせて逃げようとする夏清の気持ちなどお構いなしで、指が横から進入する。
「……っ! 大体、先生、卑怯だよ……私が何にも知らないと思って……く、ちでやるの……」
「は?」
最後のほうが口篭もってしまって、はっきり聞こえなかったのだろう、井名里が問い返す。夏清の秘裂をいいようにいじりまわしていた手も、中途半端に指が差し込まれたまま止まった。
「だって昨日みんな言ってたもん、断るって。やらないって」
危うく翻弄されそうになったが、愛撫が突然止まったことで意識が保てる。上目遣いににらみながら、夏清にそう言われて、井名里がちっと、あさってのほうを見ている。
「やっぱり! 知っててさせてた!! 私、みんなやってると思ったから、やだったけど……がまんしてしてたのに……んっ! やぁん!!」
止まっていた指が再び動き出して、ナカに入っていた指が内側をなぞり、親指が敏感なところを押しつぶす。本人が止めようにも、体だけが勝手に反応する。たったそれだけで軽く達してしまい、細かく体が震える。
「誰もしてないからやらないのか?」
ぐちゃぐちゃと、音がするほどかき回される。タイルに爪を立てようとする小さな軋みが井名里にだけ聞こえる。歯を食いしばって耐えている顔は、この上ないくらいの媚態に満ちている。
「……だけじゃない……やりたくない、から……ん、ヤダ……もう、やめて……家帰って普通にやろうよ……それなら、やだって言わ……な、いから。それ、だけじゃ……だめ?」
唇がひどく乾くのに、なぜか唾液は飲み込んでもすぐに口の中にたまっている気がする。うまく喋ることができないもどかしさに夏清が無意識に唇を舐める。吐き出される吐息に色がついているかのような、艶めかしい錯覚。
腰から下が、勝手に動き出しそうだ。足に力が入らなくて、まるでそこにある手に擦り付けるように、体が沈んでいく。
そのまま、井名里の手が抜かれる。つけたままだったショーツが、するりと、ひざの下まで下ろされた。スカートを穿いたままで。
「っ! や……!! ぃいンッ!」
しゃがみこんでひざをついた井名里に、何をするのか理解して夏清が止めるより先に、井名里が夏清の秘唇にくちづけた。
「だっ!! ……め……汚い……やめ……いやぁ」
夏清が下を見ても、スカートが邪魔になって何も見えない。逆に見えないことで感覚がはっきりして、何をされているのか一直線で脳に伝わるような気がする。わざと音を立てて舌が這い回る。ナカに入る。舌が抜かれる。指が入る……二本……
「あ、あぁッ……く……ヤダ……こんなの、やだ……ぁ……んんっ………ッは……ふ!!」
誰かくるかもしれない。誰かいるかもしれない。そう思うと、何とかして声を出さないようにしようとしてしまう。声が出せないと、こんなにも内側にいろいろな熱がこもるなんて、夏清は知らなかった。いつもよりずっと熱い。井名里の顔をはがそうと、力ない指でその頭を掴んで髪を引く。井名里は全く気にならないのか、逆に体勢を維持するために壁のタイルについていた片方の手で夏清のまだ少し肉が足らない尻を掴む。
「ひっ」
その冷たさに、夏清の体が跳ねる。無意識に突き出された一番敏感な肉芽を、井名里が軽く吸いたてた。
「やっ!! どう、し………もう……だめ……」
がくがくと、腰が、壊れたおもちゃのように震える。
ナカに入れていた指が、コレでもかと締め上げられる。
その暖かさが名残惜しくて、かき回すようにしながら指を抜く。あけたばかりのワインを注ぐときのような、こぷん、という音が聞こえて、あふれ出した愛液が内腿を伝う。
壁に身を預けたまま、夏清が肩で息をしている。
「女だって、口でされたら気持ちいいだろ?」
イかされた夏清に、否定することはできない。気持ちよかった。怖いくらいに。だからこそ、もうやめてほしかった。
「も、許して……お願い……ごめんなさい。かばんに……いれたの、謝るから……」
浮かされたように潤んだ、上気した顔でそう言われると、さらに続けて何度もイかせたい衝動に駆られる。本人に全く自覚がないのに色気がにじみ出ている。
「じゃあ最後に、ひとつだけ」
ナニをさせられるのかと、夏清が身構える。さすがに三ヶ月以上いっしょに暮らせば、相手の行動のパターンが読めてくる。井名里がこう言うことを言うときは、ろくでもないお願いが多い。
「ココで本番させろとか、口でやれとかじゃないから……」
あからさまにほっとした夏清に、井名里が苦笑する。悪いけれど、安心してもらうのはまだ先だ。
ゆっくりとした動作で井名里が備え付けられた洗面台で手を洗い、トイレットペーパーをそのままはずして持ってくる。再びひざをついて内腿をぬぐう。
「やッ! そんなこと、自分でやるから……! っひゃん!?」
溶けるくらい熱くなっていた秘唇にいきなり冷たいものが当てられて、今いる場所がどこなのかも考えずに夏清が悲鳴をあげた。そのまま、冷たいものが体内を逆流していく。
「な、に……いれたの?」
便秘になったときのように、すっきりしない感覚。異物感。
恐る恐る聞いた夏清に、立ち上がった井名里が右手に持った物を見せる。
「コレ、の片割れ」
井名里の手に握られているのは、夏清が持っている携帯電話と同じ色合いの、ピンク色の小さな棒のようなもの。
「…………」
「リモコン式でワイヤーコードもなし。ちょっとサイズは大きめだけど結構高性能らしいよ。百メートルくらい離れてても作動するらしいから」
いいながら、かちっと、ほんの少しメモリスイッチを上にずらす。体の奥から機械のモーター音が聞こえて、小刻みに震えている。これは、まさか。
「わざわざこっちの知り合いに聞いて神戸まで買いにいってきたんだが、どうだ?」
「どう……って……取って……こんな変なの、入れないで……」
やっと通り過ぎた快感が鈍くよみがえってくる。
止まった愛液がまた出そうになって、そこに力を入れたら逆に振動がより一層体に伝わる。
「だめ。せっかく一番高いの買ってきたんだから、俺がいいって言うまでそのまま。自分で取ったら、そうだな、もっとおもしろいことしようか?」
これ以上何をしようというのだろう? 薄く笑う井名里に、もう夏清は何も言えなくなる。また泣きそうな顔になった夏清に、さすがに井名里もスイッチを切る。
「ああ、使うか? これ」
さも今思い出したように、井名里がポケットから、今回の原因を取り出す。差し出されたそれを、夏清がひったくるように奪う。
「じゃ、俺は先に行くから。遅れるなよ?」
あっさりそう言い放って、井名里が出て行く。いつまでもそうしていられるわけもない、すでに濡れて冷たくなりかけたショーツに生理用のそれをつける。
夏清は、なんだかもう泣くのも疲れるくらい惨めな気がした。かばんから取り出した携帯電話を見ると、集合時間までまだ三十分以上ある。便座のふたを閉めてそーっと座る。なんとかおちついてからでないと、誰にも会えなかった。
「うわ! 先生だ!!」
かわいそうな夏清をおいたまま出口に向かっていた井名里に心底驚いた様子で立っているのは二年A組の女子生徒二人。
「おまえらこそ、何してるんだ? わざわざ金払って見学か? ここ、コースにしてるやつらっていなかったと思うんだが」
「いや、その、ねえ」
「うん、えーっと……せっかく来たんだし、こう、見聞を広めようかと……時間も余ってるし」
一応、団体行動が義務付けられている。まさか、彼氏に会うために別行動をとった夏清を探しているとは言えず少女たちはあいまいに笑ってごまかした。
突然、軽やかなメロディーがしんとした館内に鳴り響く。井名里がポケットから携帯を取り出して話しているのを、逃げることもできずに少女たちが呆然と見ている。
「ねえ、いまの……」
「浜崎だよ。聞き間違いじゃないよね?」
しかも新曲だった。なんだかものすごく怖いものを聞いてしまった気がする。そんな少女たちに構うことなく井名里が会話を続けている。
「ああ、お前に聞いたとおり行ったら場所はわかった。すぐ。あったよ。悪かったな仕事中に。おう、じゃあまたな」
簡潔に用件をやり取りした井名里が、電話を切って二人のほうを向く。
「ほかのメンバーは?」
「え? 外にいますよ。お金もったいないからって私たちだけ入ったんです」
正確にはこの二人はじゃんけんで負けたのだ。
クラスの女子全員で追いかけて、すぐに誰もが気づいた。クラスの女子の中で、夏清はダントツで足が速いのだ。一年生のとき陸上部から熱烈なラブコールがかかっていた。この春の記録会でも、運動部員を押しのけていろいろな種目で上位入賞を果たしているのだ。
あっという間に夏清を見失い、みんなで手分けして探すことになった。もしかしたらこの建物の中にいるかもしれない、ということで入館料がいるためじゃんけんで入る人間を決めたのだ。
えへーっとごまかし笑いを浮かべる二人に井名里がしれっと尋ねる。
「渡辺は? こう言うところ行きそうじゃないか?」
「え!? 委員長見かけたんですか!?」
二人の声がハモる。夏清を探していたのだろうとかけた井名里の罠に哀れな仔うさぎたちはさっくりと囚われている。
「いや、見なかったけど? はぐれたのか?」
「ええええええ!?」
「そそそ、そんなんじゃないですぅ!」
「います! いますよ委員長!! ね?」
「うんうん。先生、私たち、戻りますねぇ」
目に見えて動揺しながら後退して、そのあと脱兎のごとく逃げていく。
完全に別行動をしている夏清を、彼女たちはちゃんとかばっていた。
「なかなかどうして、慕われてるねぇ」
取って食われるとでも言いたげな逃げっぷりに少し笑ってから、井名里がひとりごちた。
生きた心地がしなかった。
バスまで歩いて五分もかからなかったけれど、歩くたびに体の中のそれが体積を主張して、ものすごく変な感じがした。
バスの中では井名里が動くたびにびくびくしていなければならなかった。一番遅れてやってきた夏清をバスの乗車口で井名里が待っていた。端から見れば来ない生徒を心配する担任の図だが、ギクシャクと歩いてきた夏清が気合を入れてバスに乗ろうと足を上げた瞬間を狙ってスイッチが入れられた。
すぐに止まったが、いきなり何メモリあげたのだろう? 思わず倒れそうになった夏清に、手を貸そうとのばした井名里の手を、夏清は思い切りはたいていた。
「触らないで!! ……ください」
普段おとなしい夏清の大声に、バスの中のクラスメイトたちが何事かと色めきたつ。
補助席をいれて五十二名乗ることができるバスなので、必然的に遅く来た人間の数名は補助席になるのだが、熱が出たように赤い顔をした夏清に、草野が席を譲る。
「委員長、顔色悪いよ? こっち座りな」
いつもなら、断っていたけれど、この状態で硬い補助席はつらかった。ありがたく草野があけてくれた席に座る。
「ありがと……ちょっと、寝てもいい?」
「うん。着いたら起こしてあげるから。寝たほうがいいよ」
隣の少女が心配そうにそう言ってくれた。
もう一度ありがとう、と言ってから夏清はゆっくりと目を閉じた。
「委員長? 大丈夫? 起きられる?」
「あ……着いた……?」
眠ったような、眠っていないような。いつもなら移動する乗り物に乗っていると熟睡していても目的地が近くなればなぜか目が覚めるのに、夢と現(うつつ)の境界線上にあった意識は、覚めてもはっきりしない。そう言えば、新幹線でもそうだったなと、さすがの夏清も体調の悪さを感じはじめていた。
誰かが動くたびにびくびくして、やっと眠れそうになったらナカのものが勝手に動き出して浅い眠りが妨げられる。
じらすように単調な動き。それでも与えられつづければ、緩慢な快楽へ押し上げられていく。なのに、あと少しのところで、図ったようにそれは沈黙する。その繰り返し。
「うん。着いたよ」
「最後に降りる、から……先行ってて」
熱に浮かされたように、ぼぅっとする。脳みそが半分溶けかけてうまく動けなかった。
「わ、わかった。荷物、持ってあげるから」
夏清の隣の少女は、艶やかな目で見上げられて赤面しながら答える。
「ありがとう」
「無理しないでゆっくりでいいよ?」
「うん」
ぞろぞろと降りていくのを見送りながら、何とか意識を覚醒させる。からだがだるい。
「渡辺? 立てないなら……その、手……貸そうか?」
最後に立っていた男子……夏清と同じ委員長をしていて、サッカーもしていて、背が高くて、結構女子に人気がある……
「滝本くん」
やっと名前を思い出して、夏清がかすれた声で彼の名を呼ぶ。目元や、その声に、ぞくぞくするような感覚を覚えながら、滝本が夏清に手を貸す。
触れた手が、熱かった。手首が細くて、少し力加減を間違えたら折れてしまいそうでうまく力が入らない。
「………っ!!! や……」
滝本にすがるようにして立ち上がった夏清が、苦しげに眉間にしわを寄せて、また座席に崩れ落ちる。
「渡辺!? だいじょう……」
細い肩を抱いてがくがく震えている夏清に滝本が声をかけ、手を伸ばす。その腕が、後ろから来た誰かに掴まれた。
「俺が連れて行くから、保健医呼んで来い」
「は、はい……」
骨まで食い込むかと思うくらい強く、井名里の指が滝本の腕を掴み、振り払うように夏清から遠ざけられる。躊躇しながらも、怖いくらい冷たい井名里の瞳に、滝本はそう返事をして逃げるようにバスから降りていく。
「さわ、ら……ないで……ほっといて」
「そういうわけにいかないだろう」
「自分で、したくせに……ひどっ……いよ……」
大きな瞳から、涙が零れ落ちる。今まで絶対泣かないと我慢してきたけれど、もうとっくに限界なんか超えていた。唇が震えるのは、泣いているせいなのか、怒っているせいなのか、体調が悪いせいなのか、もう夏清には分らない。
「悪かった。とっていいから、宿に頼んで空いた部屋にいれてやるよ。だからほら、立って」
「だめ……立てない……だって、今ので……スカートまで……」
バスのシートは深い緑なので、こちらは少々濡れてもごまかしが利く。しかしスカートは、色が薄めのグレーなため、濡れたらよく目立つ。
ふるふると首を横に動かす夏清にスーツの上着をかけて抱えあげる。背は低くないけれど細身な夏清は、スカートまですっぽりと井名里のスーツの中に入ってしまう。
「これなら、わからないから」
声もあげずに静かに泣いている夏清を抱きしめようとして、寸でのところで井名里が踏みとどまる。スモークガラスなので外から丸見えと言うことはないだろうが、下から生徒たちが見上げている。会話も小声なので聞かれてはいないだろうが、バスガイドが聞き耳を立てている。
井名里は諦めににたため息を一つついて、狭い通路を肩に手を回して歩く。
バスのタラップを先に降りた井名里が、夏清を抱えあげる。バスガイドが不安そうに大丈夫ですか? と言うのを井名里がさり気に無視した。
もう本当に、死んでしまいたいくらい恥ずかしい。ゆっくりと与えられ続けた刺激に澱んでいた体が、井名里が最後に入れた振動で一気にイってしまった。
叫びだしそうになったのを目の前にいた滝本を見た瞬間、飲み込んで。そしたらもう、足から力が抜けた。
しかも、ひどいことをした張本人に抱かれているのも、ものすごくかなしい。
同級生の顔を見られなくて、顔が上げられない。必然的にしがみつくようなかっこうになるのがくやしい。
なのに、それなのに。
やっぱりこうしてしがみついて、その匂いや体温、呼吸の音を聞くと、安心してしまう。こんなにも、依存している。いっそこのままくっついて、離れられなくなればいいのに。同じものになれたら、つらいことなんかないのに。
恥ずかしくていやだと言う気持ちと、ずっとこのままでいたいと言う気持ち。矛盾した二つの気持ちの間で、自分がどうしたいのか、夏清にはわからなくなる。
井名里が、保健医となにやら言葉を交わしている。とりあえず休ませないと、と言って、抱えられたままどこかに連れて行かれた。
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